燃やせないゴミの日。捨てかねている使えないプリンターなど。今日もパスすると決めちゃった。




2002ソスN1ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0912002

 松過ぎの弁当つめてもらひけり

                           清水基吉

語は「松過ぎ」で新年。松の内が過ぎたころで、まだ新年の余韻が少し残っている。作者は大正七年生まれ。作者自身が弁当をつめてもらったとも解せるが、小学生か中学生の孫か曾孫がつめてもらったと読んでおきたい。そのほうが、句に暖かみが出ると思う。三学期の始業式も終わって、今日からいつものように弁当持参の学校生活がはじまる。子供にも、子供の日常が戻ってきたのだ。正月もこれでお終いだな。頭の片隅でちらりとそんなことを思いながら、「元気でがんばれよ」と声をかけてやりたくなる気分。弁当を受け取る孫はおそらく無表情だけれど、作者の表情にはおのずといつくしみの念が浮かんでいるだろう。ほほ笑ましい光景だ。ところで私見によれば、孫と猫を素材にした詩歌にはほとんどロクなものはない。どうしても目じりが下がり過ぎて、溺愛気味の筆の運びとなってしまうからだ。あの金子光晴にしてからが、そうだった(「若葉ちゃん」連作詩)。家族や親戚に読ませるのならばともかく、一般読者に差し出されても困ってしまう。この句は、そのあたりの機微をきちんとわきまえた上での作句だと思った。だから「つめてもらひけり」の主体が、意図的に隠されているのではあるまいか。読者に察してもらうことで、大甘な句になることから免れているのでは……。『離庵』(2001)所収。(清水哲男)


January 0812002

 冬の雨花屋の全身呼吸かな

                           津田このみ

じ程度の降りなら、雪よりも「冬の雨」のほうが、実際の気温とは裏腹に寒く冷たく感じられる。暗くて陰鬱だ。『四季の雨』(作詞者作曲者ともに不詳)という文部省唱歌があって、歌い出しは「聞くだに寒き冬の雨……」と、まず寒いイメージが強調されている。そんな雨のなかを身をちぢめて歩いているうちに、「花屋」の前に出た。ぱっと明るい春の花屋に比べれば、冬の花屋の色彩はさすがにバリエーションに乏しい。乏しいけれど、店の花々はこの冷たい雨を受け入れ、「全身」ですこやかに「呼吸」しているように見えた。ひっそりと、しかし確実に充実した時間のなかにある花々に、作者は静かな感動を覚えたのである。花屋を色彩的にスケッチした句はよくあるが、掲句は花々の生理に就いて詠んでおり出色だ。他の季節とは違う「冬の雨」ならではの句景である。ちなみに『四季の雨』のそれぞれの季節は、次のように歌い出されている。「降るとも見えじ春の雨……」「俄(にわ)かに過ぐる夏の雨……」「おりおりそそぐ秋の雨……」。メロディーが、また素晴らしく美しい。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


January 0712002

 日の暮のとろりと伸びし松納

                           福田甲子雄

語は「松納(まつおさめ)」で新年。門松を取り払うこと。昔の江戸では六日、京大阪では十四日に納めた。地方によって異なり、伊達藩では四日に取って「仙台様の四日門松」と言われたそうだ。いつまでも正月気分では藩内がたるんでしまうという、伊達家の生真面目さからだろう。いまの東京あたりでは、今日七日に取る家が多いようだ。いずれにしても、取り払うのは夕方である。いざ門松を取り払ってみると、周囲に漂っていた淑気が消え、一抹の寂しさを覚える。作者もそのように感じているのだが、冬至のころとは違い、やや「日の暮」も伸びてきている。沈んでいく夕陽を眺めやると、いささか「とろりと」もしてきたようで、季節は確実に春に向かっていることが実感された。そんな太陽の様子の形容を、時間のそれに移し替えたのが「とろりと伸びし」。すなわち、門松を取り払った物寂しさのうちにも、春待つ心が芽生えてきた喜びを詠んだ句だ。寂しさを寂しさのまま止めていないので、読者も「とろりと」暖かい心持ちになれる。ところで、今日は七草。次の句も「とろりと」暖かい。「末寺とて七草までを休みをり」(神蔵器)。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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