中学生の詩朗読の生放送につきあう日。人気詩人は「ねじめ正一」と「金子みすず」だ。うーむ。




2002ソスN1ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1212002

 老いてゆく体操にして息白し

                           五味 靖

語は「息白し」で冬。句意は明瞭だ。年を取ってくると、簡単な動作をするにも息が切れやすくなる。ましてや連続動作の伴う「体操」だから、どうしても口で呼吸をすることになる。暖かい季節にはさして気にもとめなかったが、こうやって冬の戸外で体操をしていると、吐く息の白さと量の多さに、あらためて「老い」を実感させられることになった。一通りの解釈としてはこれでよいと思うけれど、しかしこの句、どことなく可笑しい。その可笑しみは、「老いてゆく」が「体操」にかかって読めることから出てくるのだろう。常識的に体操と言えば、老化防止や若さの維持のための運動と思われているのに、「老いてゆく体操」とはこれ如何に。極端に言えば、体操をすればするほど老いてゆく。そんな感じのする言葉使いだ。このあたり、作者が意識したのかどうかはわからないが、こう読むといささかの自嘲を込めた句にもなっていて面白い。ところで、この体操はラジオ体操だろうか。ラジオ体操は、そもそもアメリカの生命保険会社が考案したもので、運動不足の契約者にバタバタ倒れられては困るという発想が根底にあった。そんなことを思い合わせると、掲句は自嘲を越えた社会的な皮肉も利いてきて、ますます可笑しく読めてくる。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


January 1112002

 雪つぶてまた投げ合うて別れかな

                           阿部慧月

語は「雪つぶて(雪礫)」で冬。雪合戦のときなどの雪玉だ。少年時代の回想だろう。句を読んで、ありありと一つの情景がよみがえってきた。田舎の雪道を、何人かで連れ立って帰る。ほとんどが一里の道を歩くのだが、同方向の者ばかりではないから、分かれ道に出るたびに、少しずつ人数が減っていく。そして、最後は一人になる。冬の山道は、日暮れが早い。暗くなりかけた遠くの山裾では、早くも明かりを灯している家がぽつりぽつりと……。心細くなって早足になりかけて、たいていはその途端だ。いきなり、背中に「雪つぶて」が飛んでくるのは。「来たっ」と思う。投げてきたのは、いましがた別れた奴である。こちらもパッとかがみ込み、振り向きざまに「なにくそ」と投げ返す。物も言わずに数個の応酬があってから、どちらからともなく「じゃあ、またあしたなあっ」と笑いながら大声をかけあって、我々の「儀式」は終わるのだった。そのときにはむろん、センチメンタルな感慨など覚えるはずもなかったけれど、回想のなかでは甘酸っぱい哀しみのような思いがわき上がってくる。その思いが「別れかな」の「かな」に込められている。奴と別れてから、もう何十年にもなる。いつも年賀状に「一度帰ってこいよ」と書いてよこす。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1012002

 冬青空いつせいに置く銀の匙

                           水野真由美

語は「冬の空」。曇りや雪の日の空は暗鬱で寒々しいが、晴れた日には青く澄みきって美しい。その美しさを、どう表現するか。たとえば「冬青空鈴懸の実の鳴りさうな」(中村わさび)という具合に地上の自然と呼応させるのが、俳句的常道だろう。悪くはないが、あくまでも静観の美しさだ。が、作者の場合は静観では飽き足らぬ思いがあり、アクションで呼応している。あまりの美しさに、食事中の「匙」を思わずも置くほどだと言うのである。それも作者ひとりだけではなく、地上のあちこちでたくさんの人々が「いつせいに」置いたと瞬間的に想像を伸ばしている。このときに「銀の匙」の「銀」とは、本物の「銀製」である必要はない。見事な青空に対すれば、どんな匙でも少し鈍色がかった銀色に見えるはずだ。決してキラキラとは輝いていない匙が「いつせいに」、それも無数に食卓に置かれたことで、いっそう冬空の青さが鮮烈に目に沁みてくる。さらに私の独断的想像を書いておけば、句が終わった途端に、アクションを起こした人々の姿も食卓も住居までもが「いつせいに」掻き消されてしまい、青空の下に残ったのは数多の「銀の匙」だけのような気がしてくる。そんな絵のような光景が浮かんできた。『陸封譚』(2000)所収。(清水哲男)




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