昨日の東京は気味が悪くなるほどの暖かさ。今日も最低気温が12度の予想。反動がコワいですね。




2002ソスN1ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1612002

 寒雷や針を咥へてふり返り

                           野見山朱鳥

語は「寒雷(かんらい)」で冬。冬の雷のことだが、冬に雷は少ない。少ないからこそ、鳴ったり光ったりすれば、一瞬何事かと音や光りの方角を自然の勢いで見やることになる。その一瞬をつかまえた句だ。しかも「ふり返」った人は、偶然にも「針を咥へて」いた。雷と針。物理的に感電しそうだとか何とか言うのではなく、いかにも犀利でとがった印象を受ける現象と物質とが瞬間的に交叉し光りあったような情景のつかみ方が面白い。現代語で言えば、「しっかりと」構図が「決まっている」。さて、この「針」であるが、私には待針(まちばり)だと思えた。したがって、ふり返ったのは女性である。妻か母親だろう。待針は裁縫で縫いどめのしるしとし、あるいは縫い代を狂わないように合わせて止めるために刺す針のことだ。一度に何本も刺さなければならないので、大工が釘を咥(くわ)えて打つのと同じ理屈で、何本かを口に「咥へて」いるほうが能率的である。たいていは、頭にガラス玉か花形のセルロイドなどが付いていたので、咥えやすいという事情もあった。それにしても掲句は、よほど研ぎ澄まされた神経でないと見過ごしかねない情景を詠んでいる。作者の人生の三分の一が不幸にも病床にあったことは、既に何度か書いた。『曼珠沙華』(1950)所収。(清水哲男)


January 1512002

 上流や凍るは岩を押すかたち

                           ふけとしこ

語は「凍(こお)る」で冬。寒気のために物が凍ることだけではなく、凍るように感じることも含む。川の上流は自然のままなので、岩肌がゴツゴツと露出している。厳寒期になって飛沫がかかれば、当然まずは岩肌の表面から凍っていくだろう。そして、だんだんと周辺が凍ることになる。その様子を指して、凍っていく水が「岩を押すかたち」に見えるというのだ。「凍る」という現象を視覚的な「かたち」に変換したことで、自然の力強さが読者の眼前に浮かび上がってくる。なるほど、たしかに岩が押されているのだ。掲句を読んだ途端に、大串章に「草の葉に水とびついて氷りけり」があったことを思い出した。言うならば岩を飛び越えた飛沫が「草の葉」にかかった情景を、繊細な観察力で描き出した佳句である。岩を押す力強さはなくても、これもまた自然の力のなせるわざであることに変わりはない。再び、なるほど。たしかに草の葉はとびつかれているのだ。岩は押され、草の葉はとびつかれと、古来詠み尽くされた感のある自然詠にも、まだまだ発見開拓の期待が持てる良句だと思った。「ホタル通信」(22号・2002年1月8日付)所載。(清水哲男)


January 1412002

 成人の日の大鯛は虹の如し

                           水原秋桜子

語は「成人の日」で、新年に分類する。大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます日。戦後にできた祝日だ。一月十五日と定めた(2000年から第二月曜日になった)理由は、おそらくは次の日が昔の奉公人の休日だった「薮入り」と関係しているのだろう。「薮入り」で父母のもとに帰ってくる若者たちは、いちだんと成長して大人びてくる。物の本によれば、この日を鹿児島地方では「親見参(おやげんぞ)」と呼び、離れて暮らす子供らが親を見舞う日になっていたそうだ。「成人の日」が法制化された敗戦直後の工場や商家などには、こうした風習がきちんと残っていただろうから、その前日を祝日にしたのは「大人になった自覚」云々の趣旨よりも、むしろハードに働く若者たちに連休を与えてやろうという「民主主義国家」としての「親心」が働いていたのではあるまいか。いわば「隠し連休」というわけで、粋なはからいだったのだと思いたい。掲句に解説の必要はなかろうが、子供の成人を「大鯛」でことほぐことが、決して大袈裟でも何でもない時代があったことが知れ、興味深く読める。それほどに、当人も親たちも「成人」のめでたさを実感できる社会の仕組みのなかで生きていたのだ。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)などに所載。(清水哲男)




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