目の調子が悪いとバスの行き先表示が見えない。端から止めて運転手に聞く。嫌われるのは承知。




2002ソスN1ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2512002

 かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す

                           正木ゆう子

語は「鷹」で冬。鷹の種類は多く夏鳥もいるのだが、なぜ冬季に分類されてきたのだろう。たぶんこの季節に、雪山から餌を求めて人里近くに現れることが多かったからではあるまいか。一読、掲句は高村光太郎の短い詩「ぼろぼろな駝鳥」を思い起こさせる。「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。/動物園の四坪半のぬかるみの中では、/脚が大股過ぎるぢやないか。……(中略)これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。/人間よ、/もう止せ、こんな事は。」。心情は同根だ。「風」などと格好良い名前をつけられてはいても、結局この鷹は、生涯颯爽と風を切って飛ぶこともなく「飼ひ殺」しにされてしまうのだ。「俳句」(2002年2月号)を読んでいたら、作者はこの句を、動物園で見たみじめな状態の豹に触発されて詠んだのだという。「あきらめきった美しい豹」。となれば、なおのこと句は光太郎詩の心情に近似してくる。ただ、詩人は「もう止せ、こんな事は」と声高に拳を振り上げて書いているが、句の作者はおのれの無力に拳はぎゅっと握ったままである。これは高村光太郎と正木ゆう子の資質の違いからというよりも、自由詩と俳句との様式の違いから来ているところが大だと思った。いまの私は「もう止せ」と静かに言外に述べている俳句のほうに、一票を投じたい。俳誌「沖」(1989)所載。(清水哲男)


January 2412002

 竹薮の日を踊らせて空っ風

                           福田千栄子

語は「空っ風(空風)」で冬、「北颪(きたおろし)」などとも。天気のよい日中に、山越しに吹き下りてくる季節風だ。上州(群馬)では昔から「かかあ天下に空っ風」と、その猛烈な勢いを言い習わしてきた。関東地方に多く吹くが「罐蹴りや伊吹颪は鬼へ吹く」(日比野安平)のように、他の地方にも呼び名の違う名物のような空風がある。伊吹は滋賀。掲句は、吹きすさぶ様子を「竹薮」に認めることで、すさまじさを的確に表現している。丈の高い竹群がいっせいに揺れるのだから、大揺れの竹の合間に透けて見える太陽の光りは散乱明滅し、さながら踊っているようだ。それも、狂うがごとくと言うのだろう。「日」が射しているだけに、逆に荒涼感も強い。ただ「竹薮の」という措辞が、少々気になった。「竹薮に」としたほうが、同じ情景でも、句のスケールが大きくなるのではあるまいか。私も一度だけ、前橋(群馬)で本格的なヤツに遭遇したことがある。まず、まともに目を開けていられない。おまけに私はコンタクト・レンズを装着しているので、痛さも痛し、うずくまりたくなるほどだった。「かかあ天下」はともかく、とてもここでは暮らせないなと思ったことである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 2312002

 王冠のごとくに首都の冬灯

                           阿波野青畝

後も間もなくの句。季語は「冬灯(ふゆともし)」だが、単に冬の燈火を指すのではなく、俳句では厳しい寒さのなかのそれを言ってきた。空気が澄みきっているので、くっきりと目に鮮やかだ。掲句の灯は、復興いちぢるしい東京の繁華街のネオンのことを言っている。高いところで、さながら豪奢な「王冠」のようにキラキラと輝いている。「東京がゴッツイ王冠をかぶっとる。さすがやなア。よう見てみなはれ、ゴウセイなもんやないかい」と、関西人である作者は感嘆している。……と受け取った読者は、まことに善良な性格の持ち主だ(笑)。なんのなんの、生粋の関西人がそう簡単にネオンごときで「首都」を褒め称えるわけがない。たしかに最初は目を見張ったかもしれないが、たちまち「なんや、よう見たら、あれもこれもヤスモンの瓶の蓋みたいなもんやないか、アホくさ。おお、サブゥ」となったこと必定である。つまりこの句には、そんな毀誉褒貶をとりまぜた面白さがある。どちらか一方の解釈だけでは、あまりにも単純でつまらない。形が似ているところから、ブリキ製のビール瓶などの蓋のことを、当時は俗に「王冠」と呼んでいた。この言葉が聞かれなくなって久しいが、そもそもの本家(!)の王冠の権威が、すっかり薄れてしまったことによるのだろう。『紅葉の賀』(1955)所収。(清水哲男)




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