本日中になすべきことは三つある。その三つともに手をつけないまま、後悔する明日の朝が怖い。




2002ソスN1ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2712002

 切干大根ちりちりちぢむ九十九里

                           大野林火

語は「切干(きりぼし)」で冬。一般的な切干は、大根を細かく刻んで乾燥させたものを言う。サツマイモのもある。寒風にさらして、天日で干す。「九十九里」浜は千葉県中東部に位置し、太平洋に面する長大な砂浜海岸。北は飯岡町の刑部岬から南は岬町の太東崎に至る長さ約60キロの弧状の砂浜だ。九十九里にはとうてい及ばない距離なのだけれど、実際に行ってみると、命名者の思い入れは納得できる。源頼朝が六町を一里として矢をさしていき、九十九里あったところから命名されたという説もあるそうだ。掲句の面白さの一つは、この見渡すかぎりの砂浜に、まことに小さく刻まれた大根が干されてあるという対比の妙である。それも、どんどん乾いて小さくなっていくのだから、なおさらに面白い。もう一つは「ちりちりちぢむ」の「ち」音の重ね具合だ。あくまでも伸びやかな雰囲気の砂浜に比して、身を縮めていく大根の様子を形容するのに、なるほど「ちりちり」とはよく言い当てている。このときに作者もまた、晴天ゆえの寒風に身を縮めていたに違いない。妙なことを言うようだが、多く「ち」音の言葉には、どこか小さいものを目指すようなニュアンスがある。私は別に、英語の「chilly」もふと思ったが、そこまではどうかしらん。切干大根は、油揚げと煮たのが美味い。おふくろの味ってヤツですね。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)などに所載。(清水哲男)


January 2612002

 木偶の眼のかたりとねむる寒夜かな

                           郡司正勝

者は、歌舞伎研究家として著名。句集が二冊あることを、大岡信の著書で知った。「木偶(でく)」は、あやつり人形。この場合は、文楽の人形のことだ。舞台で生命あるもののごとく動く人形に、寒夜思いを馳せていると、舞台を下りてもなお、吹き込まれた生命のままにある姿が浮かんでくる。と、「かたり」とかすかな音がした……。「かたり」と音をさせ瞼を閉じて、いま人形が眠りに就いたのである。もとより想像の世界ではあるけれども、さながら実景のように心に沁みる。「かたり」と「寒夜」の「カ」音の響きあいも、冬の夜の厳しい寒さに通じて秀逸だ。他方で「ねむる」の平仮名表記は、眠りに落ちる安らかさを表現するためのそれだろう。楽屋かどこか、寒気に満ちた殺風景な部屋に置かれた人形だが、決して荒涼たる思いで眠りに就いたのではない。作者の人形に対する愛情が、この平仮名表記に込められたのだと思う。眠る人形といえば、寝かせると眼を閉じる女の子のための玩具人形がある。あれは、どことなく気味が悪い。本物の人間に近づけようとした工夫であるには違いないが、文楽人形とは異なり、ただ一つの機能に特化した工夫だからだ。生きて見えるのは眼だけで、全身の機能と有機的に連動していないからである。『かぶき夢幻』所収。(清水哲男)


January 2512002

 かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す

                           正木ゆう子

語は「鷹」で冬。鷹の種類は多く夏鳥もいるのだが、なぜ冬季に分類されてきたのだろう。たぶんこの季節に、雪山から餌を求めて人里近くに現れることが多かったからではあるまいか。一読、掲句は高村光太郎の短い詩「ぼろぼろな駝鳥」を思い起こさせる。「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。/動物園の四坪半のぬかるみの中では、/脚が大股過ぎるぢやないか。……(中略)これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。/人間よ、/もう止せ、こんな事は。」。心情は同根だ。「風」などと格好良い名前をつけられてはいても、結局この鷹は、生涯颯爽と風を切って飛ぶこともなく「飼ひ殺」しにされてしまうのだ。「俳句」(2002年2月号)を読んでいたら、作者はこの句を、動物園で見たみじめな状態の豹に触発されて詠んだのだという。「あきらめきった美しい豹」。となれば、なおのこと句は光太郎詩の心情に近似してくる。ただ、詩人は「もう止せ、こんな事は」と声高に拳を振り上げて書いているが、句の作者はおのれの無力に拳はぎゅっと握ったままである。これは高村光太郎と正木ゆう子の資質の違いからというよりも、自由詩と俳句との様式の違いから来ているところが大だと思った。いまの私は「もう止せ」と静かに言外に述べている俳句のほうに、一票を投じたい。俳誌「沖」(1989)所載。(清水哲男)




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