好材料のない暗い春ですね。労使がべたべたに協調してもどうにもならぬ春闘なんて前代未聞です。




2002ソスN2ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0422002

 立春の鶏絵馬堂に歩み入る

                           佐野美智

春。まだまだ寒い日々はつづくけれど、春の兆しはあちこちに……。掲句も、その一つのように読める。「絵馬堂」には、大きくて立派な絵馬が、額に入れて掲げられている。そんないかめしい感じの絵馬堂に、放し飼いにされた「鶏(とり)」がひょこひょこと入っていった。まさか何かを祈願するためであろうはずもなく、作者は何の屈託もない鶏の様子に、今日の「春」の訪れを見て取ったのだろう。さらには薄暗い絵馬堂に配して、小さな白い鶏。このときに絵馬堂は大きな冬で、鶏は小さな春を感じさせる。ところで、立春とは不思議な言い方だ。風が立つなどなら体感的に納得できるが、春が立つとはこれ如何に。なぜ「始春」や「入春」ではないのだろうか。調べてみたら、曲亭馬琴編の『俳諧歳時記栞草』に由来が古書より引用されていた。「大寒後十五日斗柄建艮為立春」と。「斗柄(とへい)」は、北斗七星の杓子形の柄にあたる部分を言い、古代中国ではこの斗柄の指す方向によって季節や時刻を判別したという。「艮(ごん・こん)」は北東の方位。つまり、斗柄が北東の方角に建ったときをもって春としていたわけだ。したがって、立春。なお「建春」ではなく「立春」の字を用いるのにも理由はあるが、ややこしくなるので省略します。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0322002

 冬菜畑同じ本読む姉妹

                           田中裕明

語は「冬菜畑(ふゆなばた)」。白菜、小松菜、水菜など、辺りの草木が枯れているなかで、これらの野菜の緑は、目に沁みるように美しい。そんな畑が見える室内で、肩を寄せ合って「姉妹(あねいもと)」が仲良く「同じ本」を読んでいる。さして年齢差のない、まだ幼い姉と妹だ。読んでいるのは、絵本だろうか。二人のすこやかな成長ぶりが、窓外の冬菜の健気な姿と通いあっているようで、作者の胸には暖かいものが流れている。ささやかな幸福感をさらりと掬い上げていて、巧みだ。この句を読んで、思い出したよしなしごとがある。敗戦直後の田舎での小学生のころ、容易には本が手に入らなかった時代。誰かがたまに新しい本や雑誌を持ってくると、昼休みにみんなで一緒に読んだ。たいていは東京弁の使える(?!)私が朗読係で、みんなに読み聞かせるということになったが、これがまあ大変な騒ぎ。雑誌の場合には挿絵があるから、音読を聞くだけでは満足できない。読む私の周囲にみんなが額を寄せて密集し、なかには私の背中によじ登るようにして覗き込む奴までがいた。私は、しばしば「ひしゃげ」そうになった。あれが、本当の黒山の人だかり。そうやって、私たちは山川惣治の『少年王者』を読み、江戸川乱歩の『少年探偵団』を読んだのだった。たまのクラス会に出ると、必ずこの話を誰かがする。「ありゃあエラかったが、おもしろかったのオ」。俳誌「ゆう」(2002年2月号)所載。(清水哲男)


February 0222002

 一生を泳ぎつづける鮪かな

                           星野恒彦

語は「鮪(まぐろ)」で冬。なぜ冬なのか。冬に食べるのが、いちばん美味だからである。鮪にかぎらず、多く動植物の季節への分類は、食べごろをポイントになされている。その意味で、歳時記は人間の食い気がいかに旺盛かを示す「食欲辞典」の趣もある。ところで、掲句は食欲とは無関係だ。おそらくは、魚市場かどこかで丸のままの大きな鮪を見ての感慨だろう。べつに鮪でなくても、鯛や平目でも構わないようなものだが、しかし、鮪の流線型というのか紡錘形というのか、とにかく猛烈なスピードで泳ぐための体型があって、はじめて句が生きてくる。英語では、鮪を「tuna(ツナ)」と言う。ギリシャ語の「突進」という言葉に由来するそうだ。古代から、鮪の高速遊泳に、人々は目を瞠っていたというわけである。すなわち、鮪は一生をひたすら「突進」しつづける魚ということであり、比べれば鯛や平目のイメージは休み休み泳いでいるような感じがする。一生を突進しつづけるとは、勇壮にして豪放だ。が、他方では、何故に突進しなければならないのか。何故に、そんな運命に生まれついたのか。そうした哀しい感情もわいてくる。そういう句だと思う。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)




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