Rav句

February 0622002

 芹の水少年すでに出で発ちぬ

                           山口和夫

語は「芹(せり)」で春。多く湿地や水中に生え、春の七草の一つである。私の田舎でも小川に生えていて、芹というと清らかな水の流れといっしょに思い出す。早春の水はまだ冷たく、その冷たさゆえに、ますます水は清く芹は鮮やかな色彩に写った。そして、その「芹の水」はいつまでも同じ様子で残り、そこに影を落としていた「少年」は「すでに」存在しないと、句は言うのである。このときに少年は作者自身のことでもあるが、他の「出で発」っていった少年をすべて含んでいる。田舎とは、いつだって少年たちが「すでに出で発ち」、彼らの残像が明滅している土地なのだ。立志や野望から、漠然たる都会への憧憬からと、今日でも出で発つ理由はさまざまだろうが、昔は圧倒的に貧困が理由だった。あるいは「醜の御楯(しこノみたて)」として戦地に出で発ち、ついに帰らない者も多かった。そんな思いで芹の水を眺めていると、我とわが身を含めて、若年にして田舎を去っていった者の心の内がしのばれる。作者は七十代。掲句は、そうした少年たちへの清冽な挽歌である。私などには、泣けとごとくに響いてくる。なお若い読者のために補足しておけば、「醜の御楯」とは「卑しい身で天皇のために楯となって外敵を防ぐ者」の意だ。『黄昏期』(2002)所収。(清水哲男)


October 04102003

 遼陽に夜も更けたる声ひとつ

                           山口和夫

季。「遼陽(りょうよう)」は、中国遼寧省の都市。さきごろ日本領事館の門前で、いわゆる脱北者の女性と子供を中国警官が引き戻す出来事のあった瀋陽の南側に位置する。遼・金時代には東京(とうけい)と称した。さて、いま遼陽と聞いて、ある歴史的なエピソードを思い浮かべられるのは、七十代以上の方々だろう。日露戦争時の最初の激戦地だ。ロシア兵23万、対する日本側は14万。日本軍はロシア側の損害を上回る3万人近い犠牲者を出しながらも、勝利する。まさに両軍、血みどろの闘いだった。このときに戦死した一人が橘周太歩兵第一大隊長で、死後は軍神として崇められ、「軍神橘中佐の歌」までが作られ大いに流行したという。前書も注釈もないが、掲句はおそらく、この歌を踏まえていると読む。「遼陽城頭 夜は闌(た)けて 有明月の 影すごく 露立ちこむる 高梁の  中なる塹壕 声絶えて 目ざめがちなる 敵兵の 肝驚かす 秋の風」。突撃命令が下る前の、寂として声も無い緊張の一瞬だ。そして歳月は流れゆき、現代人の作者ははるかなる古戦場に「声ひとつ」を聞いている。その声は、むろんお国のためにと死んでいった兵士の声でなければならない。それも決して勇ましい鬨(とき)の声などではなく、かそけくも悲哀の淵に沈んだ呻きのような苦しげな声である。時は移り人は代わり、もはや忘れられてしまったかつての大会戦の地に、なおも死者の声だけが彷徨っている……。勇ましい軍神の歌を踏まえつつ、作者は反対に戦争の空しさを訴えているのだ。いちおう無季としたが、遼陽の会戦は1904年(明治37年)八月末のことだったので、作者の意識には秋季があったと思う。『黄昏記』(2002)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます