三十年つづいている拙宅でのチーズフォンジュの会。専用チーズは雪印だったけど。




2002ソスN2ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1722002

 蓬摘み摘み了えどきがわからない

                           池田澄子

語は「蓬(よもぎ)」で春。世の中には、言われてみれば「なるほどねえ」ということがたくさんある。掲句も、その一つだ。ひな祭りに供えるためか、搗き込んで蓬餅にするためか。とにかく蓬を摘んでいるのだが、さて、どこで摘むのを「了(お)え」たらよいのだろう。ふとそう思ったら、「わからな」くなっちゃったと言うのである。たいていの人は適当に摘んでいるから、こんなことは思いもしない。でも、何の因果か、ひとたびこの悩ましい疑問に捕えられたら最後、誰だって立ち往生せざるを得なくなる。物量的にも時間的にも、いかに日頃の私たちの「適当」な作業が、難しい問題を「適当に」さばいているかが逆照射されていて、面白い。句の疑問は、蓬摘みだけではなくて、日常のあっちこっちに転がっている。だから、句が生きてくる。早い話が、他ならぬこの拙文だ。どこで書き了えればよいのか、わからない。いつもは適当に終わっているのだが、べつに「適当」に基準があるわけじゃないので、生命あるかぎり書きつづけることも可能だし、今すぐに止めてもよいわけだ。「じゃあ、どうするのよ」と、掲句がにらんでいる。しかし、私にはまさに「わからない」としか言いようがない。困ったことになりにけり。ああ、とんでもない句に出会ってしまった……。と、適当に了えておきます。でもねえ……。と、まだ未練がましく後を引いている。『池田澄子句集』(1995)所収。(清水哲男)


February 1622002

 春の灯や女は持たぬのどぼとけ

                           日野草城

語は「春の灯(春燈)」。明るく華やいだ感じを言う。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。思うに、古今俳人は数あれど、草城ほどに女人礼賛の句を多く作った俳人も珍しいのではあるまいか。第一句集『花氷』のしょっぱなに「うつくしきひとを見かけぬ春浅き」があり、新婚初夜を即吟的に詠んだかのような連作「ミヤコ ホテル」はあまりにも有名だ。したがって、この句も偶発的にできたのではなく、常に女性美に執し続けている心から生まれたものだと思う。もとより、句の心根にあるのはお世辞でも何でもない。心底賛嘆しているがゆえの嫌みの無さから、そのことがわかる。関根弘に、奥さんが美容院に行ってきたことに気がつかず、大いに不機嫌にさせてしまったという出だしの詩があった。そこで詩人は女の自尊心に「てやんでえ」と啖呵を切るのであるが、草城が読んだら卒倒しそうな作品である。哀しいことに、気がつかないという点で、私は関根さんに近い。その意味で、草城句集を開くたびにコンプレックスを感じてしまうのだが、どうにもなるものではない。読者諸兄におかれては、如何なりや。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


February 1522002

 春いくたび我に不落の魔方陣

                           清水哲男

生日には、自作を載せるならわし。と言っても、自分勝手に決めたこと。お目汚しですみません。「魔方陣(まほうじん)」は、n×n個の升目に数を入れて、縦、横、斜め、どの一列のn個の数の和も一定になるようにしたもの。nが3なら三方陣、nが4なら四方陣というように呼ぶ。三方陣には、「憎し(294)と思う七五三(753)、六一八(618)は十五(15)なりけり」などの覚え歌がある。中学生の頃、このnをどんどん増やして解くのに夢中になった。n方陣では「n(n自乗+1)/2」が答えだなんてことは知らないので、憎しも憎し、ひたすら勘を頼りに解いていくのだから大変だ。それだけに、解けたときの心地よさったらなかった。そんなことをふと思い出して、二年前の誕生日を迎えるにあたって作った句。紙の上の魔方陣ならいずれ何とかなるけれど、「春いくたび」馬齢を重ねてみても、人生の魔方陣ってやつはどうにもならないなあ……と。自嘲気味。「不落」は難攻不落のそれのつもりだ。物心がついたときには、空爆が日常という世代である。死なないで、今日誕生日を迎えられたのは偶然だ。私という存在は、神様が気まぐれに解く魔方陣の片隅に入れていただいた一つの数字のようなものかもしれない。「64」。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます