ワークシェアという美しい考え。労使本音で議論しないと真に美しくはならないね。




2002ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2722002

 ゆるやかな水に目高の眼のひかり

                           山口誓子

語は「目高(めだか)」で夏。えっ、なぜ春ではなくて夏なのだろうか。私などは、水ぬるむ頃の小川ですくって遊んだものだから、目高と春のイメージとは固く結びついている。唱歌の「春の小川」にも「♪えびやめだかや 小ぶなの群れに……」とあるではないか。早速、理由を調べてみたら、昔は水鉢などに飼って涼味を楽しんだそうで、季語的には金魚と同じ扱いということのようだ。だから、夏。となれば、俳句に登場する目高は観賞魚と思ったほうがよいわけだが、掲句では明らかに観賞用の目高ではない。「ゆるやかに」流れる水という表現からしても、夏というよりも、春の感じが濃い。春になってやっと出てきてくれた目高だからこそ、「眼のひかり」が生きてくる。小さな生き物の眼に光りを感じる心は、春出立の希望や決意のそれと照応している。どう考えても、夏ではない。早春の句と読むべきだろう。また余談になるが、目高と遊んでいたころに、生きたまま飲み込むのを得意とする友人がいた。蛇をつかんで振り回すのと同じで、男の子の勇気の証しだった。私にはとても飲み込めなかったが、後で知ったところによると、飲み込む習俗は古くから大人の世界で行われていたそうである。目高の眼が大きいところから眼がよくなるなど、呪術的な目的があったという。これも全国どこにでも目高がいた頃の話で、いまや目高は絶滅危惧種となってしまった。いまどき三匹も飲み込んだら、訴えられてしまうかもしれない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 2622002

 組合ひし棺のをとこや春の雨

                           平出 隆

別式での句。「春の雨」が降っている。「棺」に横たわっている「をとこ」とは、作者とも私とも親しかった河出書房の同僚の飯田貴司君である。昨年の春(三月二日)に、六十一歳で亡くなった。棺を前にして参列者の思うことは、むろんさまざまだろう。ある人は、故人との交流の諸場面を走馬灯のように思い出すという。だが、私の場合はどういうわけか走馬灯とはいかないで、長いつきあいにもかわらず、ただ一つの些細な場面に限られてしまうようだ。詩の仲間内で言えば通夜にしか行けなかったが、辻征夫のときもそうだったし、加藤温子のときもそうだった。その他の人の通夜や葬儀でも、ほとんど同様だった。どうしてこんな時にそんなことを思い出すのかと思うほどに、他愛ないことを思い出してしまうのだ。そのように、詩人・平出隆も酒の上でのいきがかりから取っ組み合いになったことを思い出している。つまり、生きていた死者との体感が生臭くよみがえってきたことだけを詠んでいる。句を披歴した追悼文のなかで、作者は故人の体感を「重いなあ」と思ったと書いている。追悼句としては、まことに素直にも正直であり、しかるがゆえに出色だ。よい句だ。悲しい句だ。人と人との別れの悲しさは、故人の社会的な功績などとはたいてい無縁なのであって、例えばこの「重いなあ」に尽きるのだろうと、あらためてしんみりとしたことである。『追悼・飯田貴司』(2002・「追悼・飯田貴司」の会・藤田三男代表編・私家版)所載。(清水哲男)


February 2522002

 春星へ電光ニュースのぼりゆく

                           浦川聡子

の星は、やわらかい夜気に潤んだように見える。対するに、「電光ニュース」の光る文字はくっきりと鮮やかだ。それが上へ上へとのぼってゆき、次から次へと消えていってしまう。断ち消えると言うべきか。一方、上空の星はといえば、ぼおっとしているけれど、いつまでもしずかに灯っている。この対比への着目が面白い。と同時に、句の上へ上へとのぼってゆく意識は、ものみな上昇志向を帯びてくる春という季節にぴったりだと思った。春は、万物が上を向く季節なのである。そういえば、坂本九の歌に「上を向いて歩こう」があった。春の歌だ。この歌のように、ものみな上を向く季節であるがゆえに、逆に精神的には下を向くことにもなったりするのである。ひとり取り残されたような孤独感に襲われたりする。昔から春愁などと言い、人間はまことに複雑怪奇な生き物だ。したがって、句の情緒的な受け取りようは、さまざまに別れるだろう。ところで、電光ニュースの一文字は、200個ほどの白熱灯(20-30ワット)で表示されている。パソコンで言えば、素朴なドット文字や絵のそれと同じだ。最近のウエブデザイナーの世界では、このドット表示が見直されているらしい。光りを組みあわせて文字や絵を表示しようというとき、方法的にはともかく、原理的には誰もが思いつく方法だ。が、原点には原点にしかないパワーがあり情熱があり、しかるがゆえの魅力があるということ。『クロイツェル・ソナタ』(1995)所収。(清水哲男)




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