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March 0232002

 囀りにきき耳立てるごはん粒

                           寺田良治

語は「囀り(さえずり)」で春。繁殖期の鳥の雄の縄張り宣言と雌への呼びかけを兼ねた鳴き声のこと。いわゆる「地鳴き」とは区別して用いる。これから、だんだん盛んになってくる。さて、掲句で「きき耳」を立てているのは「ごはん粒」だと書いてある。そのままに受け取って、ちっぽけなごはん粒が、いっちょまえなしたり顔をして囀りを聞いている可笑しさ。それだけでも可笑しいけれど、このごはん粒が、実は人の頬っぺたにぽつんとくっついていると読むと、なお可笑しい。だから、実際にきき耳を立てているのは人なのだが、頬っぺたのごはん粒は目立つから、まるでその人といっしょになって一心に聞いているように見えたというわけだ。きき耳を立てるとは注意深く聞くことだけど、その前にもっと注意深くすることがあるでしょう……。何か忘れちゃいませんか。そんな含みもありそうだ。楽しい句だ。子供のころ、ごはん粒をつけている子を見かけると、歌うように「○○ちゃん、お弁当つけてどこ行くの」と言った。見なかったふりをして小声で、遠回しに注意したものだ。「ついてるよ」とストレートに言って恥をかかせるよりも、笑いに溶かしてしまう情のある注意の仕方である。子供にも、粋なところがあった。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


June 2962002

 山奥に叔父ひとりおり山椒魚

                           寺田良治

語は「山椒魚(さんしょううお)」で夏。山間の渓流などに生息し、山椒に似た体臭があるのでこの名がついたそうだ。私は、水族館でしか見たことはない。トカゲの親分みたいな姿をして、いつ見ても不機嫌そうにムーッとしている。そんな山椒魚に係累があるとしたら、どんな関係があってどこに住んでいるのだろう。と、たいていの人が思いもしないことを思いついてしまうのが、作者のユニークなところ。「山奥に叔父ひとりおり」と言われてみれば、たしかにそんな気がする。その叔父もまた、山奥で同じようにムーッとしているのかと想像すると、とても可笑しい。同時に、両者はおそらく音信不通だろうし、彼にはもはや母や父もいないと知れるから、ちょっぴり可哀想な気もする。良質なペーソスが、じわっと感じられる佳句だ。他の「洗濯が好きでヨットに乗っている」や「ソーダ水しゅわっと泡立つお葬式」などと読みあわせて、かなり若い人の句かと思って略歴を見たら、私よりもずっと年長だった。還暦を過ぎて俳句をはじめたのだというから、驚きだ。「読みながら笑ってしまう句集である。こんな句集はめったにない」と、跋文で坪内稔典が書いている。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


July 1572003

 いちまいにのびる涼しさ段ボール

                           寺田良治

語は「涼し(さ)」。俳句では、暑さのなかに涼味を捉えて、夏を表現する。「月涼し」「草涼し」「海涼し」等々。多くの用例では、秋に入って身体に感じる涼しさとは違い、心理的精神的な涼しさの色が濃い。掲句も、その一つだ。その一つではあるけれど、いかにも現代的な涼しさを発見していて面白い。実際、押し入れや部屋の片隅に積んである段ボール箱は、見るだけで鬱陶しく暑苦しい感じがする。引っ越しのときの箱がいつまでもそのまんまだったりすると、苛々も手伝って、ことのほかに暑苦しい。最近では真っ白な段ボール箱も見かけるが、暑苦しいのは外見の問題じゃないのだ。なかの荷物の未整理への思いが、人の心をかき乱すのだからである。作者は、ようやくそんな段ボール箱の中身を取りだして整理しおえた。不要になった箱は、現今では、リサイクルのために「いちまいに」伸ばして出すことを義務づけている自治体がほとんどだろう。で、作者も丁寧に「いちまいに」伸ばしたのである。伸ばした経験のある読者ならばおわかりのように、あれは適度な紙の固さがあるので、実に簡単にきれいに伸びてくれる。紙封筒などを開いて伸ばすのとは、わけが違う。いままで暑苦しかった形状はどこへやら、たちまちすっきりと「いちまいに」伸びてくれる段ボールに、作者の気持ちもすっきりと晴れていく。そこに「涼しさ」を感じたというのであるが、むべなるかな。よくわかります。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


September 0492003

 新涼や二人で川の石に乗り

                           寺田良治

語は「新涼」で秋。句の情景は、川遊びというほどのことではない。山峡などの川辺を歩いていて、ふっと川面からごつごつと露出している「石」に乗ってみただけのことだ。何が「二人」をしてそんな他愛無い行為に走らせたのかと言えば、むろん「新涼」である。夫婦か、恋人同士か、あるいは同性の二人連れだってかまわないのだが、とにかく二人ともどもに稚気溢れる行動に移りたくなるほど、気持ちの良い涼しさに恵まれたということだ。写真で言えば、記念写真ではなくスナップ写真。シャッター・チャンスが巧いので、なんでもないような情景ながら、構えた記念写真などよりもずっと新鮮な印象を与えつづけるだろう。こういう写真を撮れる人、いや、句を作れる人は、とても言語的な運動神経が良い人なのだと思う。上手なカメラマンがそうであるように、被写体の魅力を引き出すコツを心得ている。まずもって、被写体(相手)にある種の先入観を抱いて向き合うようなことはしない。また、相手の意識のうちで、その行為に意味があろうがなかろうが、そんなことにも関心を持たない。待っている瞬間は、ただ一点。すなわち、相手が我を忘れる一瞬だ。そして、この忘我の一瞬は、どんなに意識的な行為の過程にも訪れる。それがたとえ、気取りという極めて意識的な行為の最中にでも、気取りの意識が高揚してくると否応なく露出してくる状態である。そこを逃さずに、パッと切り取る。そして切り取るときには、こちらも忘我。ここが肝心。揚句は、まさにそのようにして切り取られた作品と読める。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


March 1332008

 ペリカンのお客もペリカン春の虹

                           寺田良治

リカンの特徴はあの大きな嘴だろう。大きな口は魚を捕らえる網のような役割をするし、すくいとった魚を喉袋に蓄えることもできるらしい。雛たちは大きく口を開けた親ペリカンの嘴の中に頭を突っ込んで餌を食べるというから便利なものだ。山口県宇部市にある「ときわ公園」ではペリカンが放し飼いされており、公園内を自由に闊歩していると聞く。公園内ばかりでなく近くの幼稚園に遊びに出かけるカッタ君という有名ペリカンもいるそうだ。そんな楽しい公園ならペリカンとペリカンがばたっと道で出会ったら、どうぞいらっしゃいと自分の住まいへ招きいれ、まぁおひとつどうぞ、と垂れた下顎から小魚など取り出しそうだ。童話に出てきそうなユーモラスなペリカンの姿がふんわり柔らかな春の虹によくマッチしている。ペリカンが向かい合っている景を切り口に広げられた明るい物語に思わずにっこりしてしまう。多忙な現実に埋没してしまうと物事を一面的に捉えがちだが、作者のように柔軟な頭で角度を変えて見れば何気ない現実から多彩な物語を引き出せるのだろう。「春ずんずん豚は鼻から歩き出す」「まんぼうのうしろ半分春の雲」などうきうきと春の気分を満載した句が素敵だ。『ぷらんくとん』(2001)所収。(三宅やよい)


January 2812016

 冬うらら猫とおんなじものを食べ

                           寺田良治

倍青鞋の句に「水鳥の食はざるものをわれは食ふ」という句がある。空を飛んで遠くの国から渡りをする水鳥が食べるものは軽くて清い印象がある。その裏には肉をはじめあらゆるものを食べて生きている人間の猛々しさが隠されているのだろう。水鳥とおなじものを人が食するのであれば仙人のような気がするが、「猫とおんなじもの」は生活感が漂う。豪華ではなく、ささやかな食を猫と分け合って食べている様子とともに自分の食生活へのペーソスが感じられる。ごちそうや珍味と呼ばれるものに魅力も感じず、お前と同じもので十分だよと膝に乗せた飼いネコに話しかける。「猫まんま」はいいけど、キャットフードはいやだな。『こんせんと』(2015)所収。(三宅やよい)


May 1252016

 コーラ飲むがらがら蛇のようにのむ

                           寺田良治

らがら蛇がいいなあ。コーラを飲むときはラッパ飲みと相場は決まっている。中学生の頃はゲップを我慢しながら瓶を高く上げて飲んでいた。ムリしてそんな飲み方をしたのは、広告や映画のカッコいいアメリカにあこがれていたからか。掲句のがらがら蛇の「がらがら」の音がコーラが喉を通過するときのぎくしゃくした感じにぴったり。ガラガラヘビはテキサスあたりの西部劇に登場する生き物だし。「えっ?!」と思うけど納得感もある。取り合わせとしても擬音語としても効いている。コーラを飲むときのついついこの句を思い浮かべながら飲んでしまいそう。今はもう半分も飲めないと思うけど。『こんせんと』(2015)所収。(三宅やよい)




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