@句

March 0732002

 地を潜り銀座の針魚食いにけり

                           高見 勝

語は「針魚(さより)」で春。原句の表記では魚偏に箴。「箴(しん)」は針の意で、下あごが針のように突き出た魚だから、この字になった。残念なことにワープロでは打ち出せないので、作者には失礼ながら二番手の慣習表記に従わざるを得なかった。この魚の名前「さより」を知ったのは、学生時代に読んだ塚本邦雄の短歌だった。これまた表記は別の意味で違っているかもしれないが、記憶に頼って書いておくと「光る針魚頭より食ふ父娶らざれば爽やかに我莫(な)し」というものである。歌の解釈はおくとして、この歌ではじめて知ったがゆえに、私はしばらくの間、さよりは白魚のように小さな魚だと思い込んでいた。が、体長は40センチほど。ええっ、どうやって「頭より食う」んだなんて、後で驚くことになる。鰯や秋刀魚のような大衆魚ではない。といって、そんなに捕れない魚でもない。しかし、学生食堂や定食屋に普通に出てくるような魚でもない。推測だが、淡泊な味に加えて鱧(はも)などと同じように、料理が面倒だからなのではなかろうか。腹が黒く、見かけが汚くなるので、おろしたものは黒い部分をていねいにとる必要がある。だから、東京でいえば銀座あたりのちょいとした洒落た店くらいでしか、なかなか扱わない。椀か天麩羅か、あるいは鮨のネタでか。とにかく作者は銀座の地下の安くはない店で食べたのだが、むろん自慢しているのではない。当の針魚も食べた人間も、出会う場所としてはどこか変だなあと首をかしげているのだ。「けり」とは言ってみたものの、どこか腑に落ちない。いまや庶民的な高級(?!)も、みんな地下に潜り「けり」であるしかないのか。そういう感慨の句だろうと、印象に残る。「広報みたか」(2002年3月3日付・市民文芸欄)所載。(清水哲男)




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