桜の開花は相当に早いようだ。桜まつり担当者は真っ青。こればっかりはねえ。




2002ソスN3ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0832002

 桜餅三つ食ひ無頼めきにけり

                           皆川盤水

語は「桜餅」で春。餅を包んだ塩漬けの桜の葉の芳香が楽しい。さて、気になる句だ。桜餅を三つ食べたくらいで、何故「無頼」めいた気持ちになったりするのだろうか。現に虚子には「三つ食へば葉三片や桜餅」があり、センセイすこぶるご機嫌である。無頼などというすさんだ心持ちは、どこにも感じられない。しかし、掲句の作者はいささか無法なことをしでかしたようだと言っているのだから、信じないわけにはいかない。うーむ。そこで両句をつらつら眺めてみるに、共通する言葉は「三つ」である。これをキーに、解けないだろうかと次のように考えてみた。一般にお茶うけとして客に和菓子を出すときには、三つとか五つとか奇数個を添えるのが作法とされる。したがって、作者の前にも三個の桜餅が出されたのだろう。一つ食べたらとても美味だったので、たてつづけに残りの二個もぺろりとたいらげてしまった。おそらく、この「ぺろり」がいけなかったようだ。他の客や主人の皿には、まだ残っている。作者のそれには虚子の場合と同じように、三片(葉を二枚用いる製法もあるから、六片かも)の葉があるだけだ。このときに、残された葉は狼藉の跡である。と、作者には思えたのだろう。だから、美味につられてつつましさを忘れてしまった自分に「無頼」を感じざるを得なかったのだ。女性とは違って、たいていの男は甘党ではない。日頃甘いものを食べる習慣がないので、ゆっくりと味わいながら食べる作法もコツも知らない。しかるがゆえの悲劇(!?)なのではなかろうか。『随處』(1994)所収。(清水哲男)


March 0732002

 地を潜り銀座の針魚食いにけり

                           高見 勝

語は「針魚(さより)」で春。原句の表記では魚偏に箴。「箴(しん)」は針の意で、下あごが針のように突き出た魚だから、この字になった。残念なことにワープロでは打ち出せないので、作者には失礼ながら二番手の慣習表記に従わざるを得なかった。この魚の名前「さより」を知ったのは、学生時代に読んだ塚本邦雄の短歌だった。これまた表記は別の意味で違っているかもしれないが、記憶に頼って書いておくと「光る針魚頭より食ふ父娶らざれば爽やかに我莫(な)し」というものである。歌の解釈はおくとして、この歌ではじめて知ったがゆえに、私はしばらくの間、さよりは白魚のように小さな魚だと思い込んでいた。が、体長は40センチほど。ええっ、どうやって「頭より食う」んだなんて、後で驚くことになる。鰯や秋刀魚のような大衆魚ではない。といって、そんなに捕れない魚でもない。しかし、学生食堂や定食屋に普通に出てくるような魚でもない。推測だが、淡泊な味に加えて鱧(はも)などと同じように、料理が面倒だからなのではなかろうか。腹が黒く、見かけが汚くなるので、おろしたものは黒い部分をていねいにとる必要がある。だから、東京でいえば銀座あたりのちょいとした洒落た店くらいでしか、なかなか扱わない。椀か天麩羅か、あるいは鮨のネタでか。とにかく作者は銀座の地下の安くはない店で食べたのだが、むろん自慢しているのではない。当の針魚も食べた人間も、出会う場所としてはどこか変だなあと首をかしげているのだ。「けり」とは言ってみたものの、どこか腑に落ちない。いまや庶民的な高級(?!)も、みんな地下に潜り「けり」であるしかないのか。そういう感慨の句だろうと、印象に残る。「広報みたか」(2002年3月3日付・市民文芸欄)所載。(清水哲男)


March 0632002

 官女雛納め癖なるころび癖

                           岡田史乃

語は「雛納め」で春。飾りつけた日から奇数にあたる日を選ぶというが、そこまで神経を働かせる人がいるのかどうか。蕎麦をそなえ、食べてから納めるとも、ものの本には書いてある。例年のように納めながら、作者ははたと気がついた。どうもこの「官女」は不安定でころびやすいと思っていたら、長年の納め方に無理があって、妙な癖がついてしまっていたのだ。といって、納め癖を強引に直して納めようとするると、今度はどこかがねじ曲がったりするかもしれない。最悪の場合には、身体が損傷してしまうかもしれない。おそらく作者はそう考えて、納め癖のついたままに、いつものように箱に収めたのだろう。情景としては、それだけの話だ。が、句はそれだけの話に終わらせてくれない。作者自身に「ころび癖」があるかどうかは知らないが、もしかすると、あるのかもしれない。だとすれば、ここで作者は苦笑しているはずだ。同様に、掲句は読者に対しても自分ならではの癖について、ちょっと関心を引っ張ってくるようなところがある。悪癖というのではなく、たとえばよく何でもないところでつまずいたり、あちこちに肘や膝をぶつけたりと、不注意からというよりも癖としか言いようのない習性について、読者が苦笑するところまで引っ張ってくる。少なくとも、私は引っ張られてしまった。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)




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