墓参を兼ねての花見で「多磨霊園」へ。やっと雨はあがったけれど、強風注意報が。




2002ソスN3ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3032002

 風に落つ楊貴妃桜房のまま

                           杉田久女

女、絶頂期(1932年)の一句。つとに有名な句だ。「楊貴妃桜(ようきひざくら)」は八重桜で、濃艶な色彩を持つ。誰の命名だろうか。かの玄宗の寵愛を一身に集めた絶世の美女も、かくやとばかりに匂い立つ。ネットで調べてみたら、わりにポピュラーな品種で、全国のあちこちで見られるようだ。久女は、かつての大企業・日本製鉄(戦後の八幡製鉄の前身)付属施設の庭で見ている。風の強い日だったのだろう。花びらの散る間もなく、房ごとばさりと落ちてきた。それを、そのまま見たままに詠んでいる。痛ましいと思いたいところだが、しかし不思議なことに、句はそれほどの哀れや無惨を感じさせない。強く的確な写生の力が、生半可な感傷を拒否しているからだろう。この句については、多くの人がいろいろと述べてきた。なかで、ほとんどの人が口を揃えたように久女のナルシシズムを見て取っている。つまり、ここで自分を楊貴妃に擬していると言うのだ。落ちてもなお美しい私というわけだが、どうしてそういう解釈が出てくるのか、私には理解できないところだった。久女は俳壇の伝説的存在ではあるので、そうした伝説が加味されての解釈かとも思っていた。が、最近になって同じ情景を詠んだ次の句を知って、ははあんとうなずけた。「むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず」、これである。掲句の解説みたいな句だ。この句には、たしかに殺された悲劇のヒロインをみずからに擬した気配が漂っている。だから、この句を知ってしまうと、掲句の解釈にもかなり影響してくるだろう。なあんだ、そういうことだったのか。よほど私が鈍いのかと悲観していた。ほっ。『杉田久女句集』(1951)所収。(清水哲男)


March 2932002

 蘖や切出し持つて庭にゐる

                           波多野爽波

語は「蘖(ひこばえ)」で春。木の切り株から若芽が萌え出るのが、蘖だ。「孫(ひこ)生え」に由来するらしい。「切出し」は、工作などに使う切出しナイフのこと。実景だろうが、庭に蘖を認めた作者の手には、たまたま切出しがあったということで、両者には何の関係もない。偶然である。しかし、この「たまたま」の情景をもしも誰かが目撃したとすれば、たちまちにして両者が関係づけられる可能性は大だ。つまり、せっかく萌え出てきた生命を、これから作者が無慈悲にも切り取ろうとしているなどと。そんなふうに、作者のなかの「誰か」が気づいたので、句になったのだ。おそらく、作者は大いに苦笑したことだろう。このあたりを言い止めるところはいかにも爽波らしいが、瞬時にもせよ、もう少し作者の意識は先に伸びていたのかもしれないと思った。すなわち、このときの作者には、本気で若芽を断ち切ろうとする殺意がよぎったということだ。そして、この想像はあながち深読みでもないだろうなとも思った。実際、刃物を手にしていると、ふっとそんな気になることがある。次の瞬間には首を振って正気に戻りはするのだけれど、鉈で薪割りをしていた少年時代には、何度もそんな気分に襲われた。いったい、あれは自分のなかの那辺からわいてくる心理状態なのか。刃物の魔力と総括するほうが気は楽だが、やはり人間本来の性(さが)に根ざしているのではあるまいか。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


March 2832002

 めんどりよりをんどりかなしちるさくら

                           三橋鷹女

語としては「落花」に分類。「九段界隈 桜みち」(第6号)というPR誌を読んでいたら、随筆家の木村梢が書いていた。この人は、邦枝完二のお嬢さんだ。「昔から、江戸っ子は満開の桜は見なかったといいます。三、四分咲きを見て、それからずっと見ないで、散りぎわに見る……」。いかにも、という感じ。徹底してヤボを嫌えば、そういうことになるのかもしれない。花のはかなさを愛したのだ。掲句もまた、徹底してはかない。はらはらと落花しきりの庭で、放し飼いの鶏たちが無心に餌をついばんでいる。花の白、鶏の白。滅びゆくものと、なお生きてあるもの。この対比だけでも十分にはかない味わいだが、作者はもう一歩踏み込んで、「めんどり」と「をんどり」とを対比させている。等しく飼われて生きる身ではあるけれど、実利的に珍重されるのは断然めんどりの側で、をんどりの役割はただ一つだから、数も少ないし大事にされることもない。もはや無用と判断されれば、情け容赦なく殺されてしまう。作者が認めているのは、どんなをんどりの姿だろうか。降りしきる花びらを浴びながら、じっと目を閉じている姿かもしれない。めんどりよりも毅然としている姿ゆえの「かなし」さが、平仮名表記のやわらかさも手伝って、じわりと胸にひびいてくる。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男)




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