がんばれ、タイガース。チケット入手不可能なので、ラジオで最後まで聞いてるぞ。




2002ソスN3ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3132002

 しやぼん玉西郷公を濡らしけり

                           須原和男

語は「しやぼん玉(石鹸玉)」で春。東京の花の名所、上野の山の西郷隆盛の銅像前。家族で花見に来た子供が、盛んにシャボン玉を吹いている。何気なく見ていると、美しい五色の玉が、風の具合で西郷さんに当たっては、ふっと消えていく。大きな西郷像に、束の間小さくて黒く濡れたあとが残る。それを「濡らしけり」と大仰に言ったところが面白い。で、いかめしい西郷さんの顔をあらためて振り仰ぐと、どことなくこそばゆそうだ。うんざりするほどの人、人、人で混雑しているなかでの、即吟かと思われる。花疲れの作者が、思わずも微笑している図。どこにも花見の情景とは書かれてないけれど、花見ででもなければ、子供が西郷公の下でシャボン玉で遊ぶわけがない。たいていの子供は花などにはさして関心がないので、このシャボン玉は親が退屈しのぎにと買い与えたのだろう。ところで花の上野は別格として、各地の「桜まつり」担当者などによく聞くのは、人寄せでいちばん苦労するのが、子供対策だそうだ。桜が咲けば、大人は放っておいても集まってくるけれど、子供はそうはいかない。春休み中なので、子供にサービスをしないと、親も来(られ)なくなってしまう。そこで、子供たちが喜びそうなアトラクションを必死に考える。テレビで人気のキャラクター・ショーを実現するには、半年以上も前に仕込まねばならない。だから、今年の東京のように二週間も開花が早まると、真っ青になる。子供のために仕込んだ芸能契約を反古にできないので、泣く泣くの「桜まつり」となる……。来週末の東京では、あちこちでそんな「葉桜まつり」が見られる。ENJOY !『式根』(2002)所収。(清水哲男)


March 3032002

 風に落つ楊貴妃桜房のまま

                           杉田久女

女、絶頂期(1932年)の一句。つとに有名な句だ。「楊貴妃桜(ようきひざくら)」は八重桜で、濃艶な色彩を持つ。誰の命名だろうか。かの玄宗の寵愛を一身に集めた絶世の美女も、かくやとばかりに匂い立つ。ネットで調べてみたら、わりにポピュラーな品種で、全国のあちこちで見られるようだ。久女は、かつての大企業・日本製鉄(戦後の八幡製鉄の前身)付属施設の庭で見ている。風の強い日だったのだろう。花びらの散る間もなく、房ごとばさりと落ちてきた。それを、そのまま見たままに詠んでいる。痛ましいと思いたいところだが、しかし不思議なことに、句はそれほどの哀れや無惨を感じさせない。強く的確な写生の力が、生半可な感傷を拒否しているからだろう。この句については、多くの人がいろいろと述べてきた。なかで、ほとんどの人が口を揃えたように久女のナルシシズムを見て取っている。つまり、ここで自分を楊貴妃に擬していると言うのだ。落ちてもなお美しい私というわけだが、どうしてそういう解釈が出てくるのか、私には理解できないところだった。久女は俳壇の伝説的存在ではあるので、そうした伝説が加味されての解釈かとも思っていた。が、最近になって同じ情景を詠んだ次の句を知って、ははあんとうなずけた。「むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず」、これである。掲句の解説みたいな句だ。この句には、たしかに殺された悲劇のヒロインをみずからに擬した気配が漂っている。だから、この句を知ってしまうと、掲句の解釈にもかなり影響してくるだろう。なあんだ、そういうことだったのか。よほど私が鈍いのかと悲観していた。ほっ。『杉田久女句集』(1951)所収。(清水哲男)


March 2932002

 蘖や切出し持つて庭にゐる

                           波多野爽波

語は「蘖(ひこばえ)」で春。木の切り株から若芽が萌え出るのが、蘖だ。「孫(ひこ)生え」に由来するらしい。「切出し」は、工作などに使う切出しナイフのこと。実景だろうが、庭に蘖を認めた作者の手には、たまたま切出しがあったということで、両者には何の関係もない。偶然である。しかし、この「たまたま」の情景をもしも誰かが目撃したとすれば、たちまちにして両者が関係づけられる可能性は大だ。つまり、せっかく萌え出てきた生命を、これから作者が無慈悲にも切り取ろうとしているなどと。そんなふうに、作者のなかの「誰か」が気づいたので、句になったのだ。おそらく、作者は大いに苦笑したことだろう。このあたりを言い止めるところはいかにも爽波らしいが、瞬時にもせよ、もう少し作者の意識は先に伸びていたのかもしれないと思った。すなわち、このときの作者には、本気で若芽を断ち切ろうとする殺意がよぎったということだ。そして、この想像はあながち深読みでもないだろうなとも思った。実際、刃物を手にしていると、ふっとそんな気になることがある。次の瞬間には首を振って正気に戻りはするのだけれど、鉈で薪割りをしていた少年時代には、何度もそんな気分に襲われた。いったい、あれは自分のなかの那辺からわいてくる心理状態なのか。刃物の魔力と総括するほうが気は楽だが、やはり人間本来の性(さが)に根ざしているのではあるまいか。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)




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