April 022002
開く扉を春光射し入る幕間かな
村田 脩
季語はむろん「春光(しゅんこう)」だが、似たような季語「春の日」が暖かい日差しを言うのに対して、やわらかく色めいた春の光線を言う。体感よりも心理的な感覚に重点が置かれている。芝居見物の句。前書きを読むと、明治座で山本富士子、林与一らの『明治おんな橋』を見たとある。出演者と題目から推して、華麗で幻想的な舞台が想像される。一幕目が終わり場内に灯がともされると、観客がざわざわと立ち上がり、扉(と)を開けて外に出ていく。舞台に吸い寄せられていた心に、徐々に現実が戻ってくる時間だ。作者も立って表に出るため、扉を押した途端に、まぶしい春の光が射し込んできた。戸外であればやわらかい光も、目を射るように感じられた。「春光射し入る」と字余りの硬い感じが、よくその瞬間を表現している。ここで一挙に現実が戻ってきたわけだが、これも芝居見物の醍醐味だろう。しかも、外は良い天気。舞台の楽しさもさることながら、芝居がはねた後も機嫌よく帰ることができると思うと、楽しさ倍増だ。そんな好日感が、はっしと伝わってくる。そしてまた席に戻り幕が開くと、「春の闇深うたちまち世も暗転」となって、再び舞台に集中するのである……。「俳句研究」(2001年5月号)所載。(清水哲男)
April 132014
海より低き村より晩鐘春鷗
村田 脩
現実にはちょっとあり得ない空間です。さらに、七七五の破調が異世界へいざないます。しかし、写生句です。句集では一句前に「行春や落書多き街に雨」があり、この前書が「アムステルダム」です。なるほど、オランダの旅の連作の一つとわかり、「海より低き村」は干拓地でした。わかってみてあらためて、作者がこの場所に立っている驚きが伝わります。海抜0mという感覚は、知識はもとより身体感覚には絶対的な基準値として設定されているはずで、それ以下のマイナス地点は地上ではあり得ないという常識があります。ところで、絵画ならだまし絵とかトリックアートなど、錯視を利用した手法があります。立体なら、荒川修作の「養老天命反転地」のように、遠近法の狂った空間内を歩くことによって平衡感覚を狂わせる作品があります。私もこの類いの空間に遊んだとき、酔いと吐き気に似た頭痛を感じた経験があります。たぶん、人間の空間感覚は、知識と経験に基づいてかなり保守された身体感覚として培われているのでしょう。あらためて掲句を読み返すと、日本の地理的条件ではほとんどあり得ない海抜0m以下の村を、海が見えている地点から見下ろした新鮮な驚きが伝わってきます。教会の晩鐘が下方から広がり届き、音が、海より低い村の実在を伝えています。オランダは海鳥が多いと聞きますが、「春鷗」の語感には欧風を感じます。『破魔矢』(2001)所収。(小笠原高志)
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