いつも机の上はごちゃごちゃ。突然キーボードに本の山が雪崩れ落ちてきたりとか。




2002ソスN4ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1142002

 滅入るほど草青みゐて死が近し

                           小倉涌史

者五十九歳の絶筆。連作「受洗せり」の最後にこの句を原稿用紙に書きつけてから、三ヶ月の後にこの世を去ることになる。膵臓癌であった。小倉涌史と当サイトとは浅からぬ縁があったが、そのことは既に書いたことがあるので略する。季語は「草青む」で春。「下萌(したもえ)」と同様に、早春の息吹きを伝える季語だ。その青さが「滅入るほど」とあるので、作句の時期が仲春ないしは暮春であることが知れる。「花の下遺影のための写真撮る」と死を覚悟した人が、「滅入るほど」と言うのは壮絶な物言いだ。生命力あふれる青草の勢いに、みずからの残り少ない弱い命が気圧されている。それも息苦しいほどに、だったろう。しかし、このときに「滅入るほど」という措辞は、単なる嘆きの表現ではないと、私には感じられる。「滅入ってしまった」のではなく、あくまでも「滅入るほど」なのだからだ。「滅入るほど」には、なお作者に命の余力があることが示されている。すなわち、弱き命がここで強い青草の命のプレッシャーを、微力なれども押し返そうとしていることになる。作者の身体が、そして命が、自然にそのように反応したのだ。壮絶と書いたのは、しかるがゆえに「死が近し」と、あらためて覚悟せざるを得なかった作者の胸のうちを推し量ってのことでもある。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


April 1042002

 蛤をおさへて椀を傾けし

                           須原和男

語は「蛤(はまぐり)」で春。吸い物の蛤を、箸で「おさへて」飲もうとしている。さりげない所作の一瞬を詠んだ句だが、吸い物の香りが伝わってくるようで、唸らされた。そしてなによりも、ゆったりと食事を楽しんでいる作者の姿が彷彿としてくるところが素敵だ。好日感に溢れている。私などはせっかちだから、むろん箸で押さえはするのだけれど、そういうところには気持ちが行かない。偶然に行ったとしても、とても句にすることはできそうもない。些事中の些事をとらえて、これほどにゆったりとした時間と空間を演出できる腕前は、天性の資質から来ているのだろうと思えてしまう。句集を読むと、作者はこうした些事のなかに一種の好日感を流し込む名手だとわかる。「桃の花竿が布団にしなひつゝ」にしても、誰もが見かける情景ではあるが、作者ならではの措辞「しなひつゝ」でびしゃりと決まっている。干されている布団がまだ冬用の厚手のそれであることが示され、干している家の人の春爛漫の時を待ちかねていた気持ちが時空間的に暗示されている。暗くて寒い冬をようやく抜け出た喜びが、よく「しなひつゝ」に込められているからだ。感度の良さもさることながら、俳句的表現の特性をよく知っている人だと思った。『式根』(2002)所収。(清水哲男)


April 0942002

 煎餅割つて霞の端に友とをり

                           藤田湘子

語は「霞(かすみ)」で春。気象用語ではないが、水蒸気の多い春に特有の、たなびく薄い雲を総称して霞と言う。当今のスモッグも、また霞だ。句の霞は実景だとしても、「友とをり」はフィクションだと思った。「煎餅(せんべい)」を食べながら遠くの霞を眺めるともなく眺めているうちに、ふっと遠い日のことを思い出した。そう言えばあいつとは、このような麗らかな春の日によく野山に遊んで、煎餅一枚をも分け合った仲の竹馬の友であったと……。その後、別れ別れになってしまったが、いまごろはどうしているだろう。元気でやってるかなあ。貧しかったが、楽しかった子供時代の追想だ。しかし、ひょっとすると、これはその友人の追悼句かもしれない。「霞の端」という措辞が、そういう可能性を読者に思わせる。霞の端は、もとよりぼんやりしている。しかも、空中に浮いている。そこに子供が二人ちょこんと腰掛けている絵を描けば、もはやこの世の情景ではない。さながら天国のような世界だからだ。そのように読めば、この煎餅を割るかそけき音もにわかに淋しく聞こえ、句全体がしいんと胸に迫ってくる。『白面』(1969)所収。(清水哲男)




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