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April 1442002

 打興じ田楽食ふや明日別る

                           大野林火

語は「田楽(でんがく)」で春。豆腐を竹の平串に刺し、あぶって水気をとってから木の芽味噌をつけ、再び火にあぶって作る。野趣があり、いかにも春らしい食べ物だ。気のおけない友人といつものように酒を飲み、「打興じ」るままに旬の「田楽」でも食おうかということになり、楽しさがなお高調してきた。と、そのときにすっと胸をよぎった「明日別る」。読み下してきて、ここで読者はぎくりとする。別れの宴だったのかと……。こういうときには、人はお互いにつとめて明るくふるまい、明るくふるまっているうちに、いつしか「明日別る」ことも忘れてしまい、いつもと同じ時間を過ごしているような気持ちになる。が、楽しければ楽しいほどに、何かちょっとしたきっかけから、実は違うのだという動かしがたい現実を思い出さされたときは、余計に辛くなる。その意味で、句の「田楽」は、二人の交遊録に欠かせない食べ物なのかもしれないと思った。木の芽味噌の山椒の味と香りが、哀しくもほろ苦く二人の別れの時を告げたのだ。ご存知かとも思うが、ついでに「田楽」の由来を付記しておく。「田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせが一見、白い豆腐に変わりみそを塗った豆腐料理に感じが似ているので、この名があるという。江戸後期の川柳に『田楽は昔は目で見、今は食い』と、ある。(C)小学館」。ちなみに、冬の「おでん」は「お田楽」の呼称から「楽」が省略された田楽の応用料理だそうである。江戸期の豆腐料理の本を見ると、実にバリエーションが豊富だ。いまどきでは「豆腐ステーキ」なんてものまである。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


October 12102011

 天高し天使の悲鳴呑みこんで

                           小長谷清実

格的な秋は空気も澄みきって、空が一段と高く感じられる。季語では「秋高し」「空高し」とも。晴ればれとして感じられる気候だというのに、ここではいきなり「天使の悲鳴」である。それはいかなる「悲鳴」なのか詳らかにしないが、天が高く感じられる時節であるだけに、空に大きく反響せんばかりの「悲鳴」には、何やら尋常ならざるものがひそんでいることは言うまでもない。天使が悲鳴をあげるなんて、よほど悲劇的状況なのであろう。しかも高く感じられる秋の天が「天使の悲鳴」を「呑みこんで」いるゆえに、空がいっそう高く感じられるというのである。穏やかではない。この句はずっと以前に作られたものだけれど、私は今年三月の東日本大震災を想起せずにいられなかった。人間や自然のみならず、天使さえもが凍るような悲鳴をあげ、それを本来晴ればれとしているはずの秋天が、丸ごと呑みこむしかなかった。いや、「なかった」と過去形で語って済ますことは、今もってできない。晴ればれとした秋も「天高し」であるだけに、呑みこまれた「悲鳴」は天空や地上から容易に消えることなく、より重たく感じられてくる。それゆえに天も、いつになく高く高く感じられる。清実には、他に「田楽やことに当地の味噌談義」という彼らしい句もある。「OLD STATION」14号(2008)所載。(八木忠栄)




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