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May 1652002

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

語は「朝焼(あさやけ)」で夏。高山から眺められる壮麗な山岳美の世界だ。朝焼けに染まった雲が海のようにひろがり溢れて、尾根を越えて落ちてゆく。太陽がのぼるにつれて、雲海の色も刻々と変化している。「溢れ落つ」の措辞が、なんとも力強い。久しく、こんな世界を忘れていた。学生時代に、級友と夜を徹して富士山に登ったときのことを思い出した。飛行機など乗ったことがなかったので、雲の上に出るなんてはじめてだったから、感動するよりも前に、感心した。物の本で読んだように、間近に見る雲は、たしかにめまぐるしく変化し、思いがけないほどの早さで落下していくのだった。しばらくして、詩の下書き用のノートに書きつけた。「落下する雲の早さで、どんどん歳が取れる朝よ来い」だなんて、若かったなあ。お恥ずかしい。掲句ほどのスケールは出せなかったにしても、ひねくれ根性を捨てて、もう少しストレートに歌えなかったものか。せっかくの山岳美を、矮小化するにもホドがあろうというものだ。「二度登る馬鹿」といわれる富士山に、二度目に登ったのは三十代も後半で、五合目で宿泊したにもかかわらず、もはやかつての山の子の健脚も錆びついており、朝焼けには間に合わなかった。ちっちやな子どもにもどんどん追い抜かれ、これではもう「三度と」登ることはないなとあえぎつつ、山岳美もへったくれもないのであった。『俳句の本』(2000・朝日出版社)所載。(清水哲男)


August 1182004

 灼けそゝぐ日の岩にゐて岳しづか

                           石橋辰之助

語は「灼け(灼く)」で夏。「垂直の散歩者」連作十二句の内、つまり岩登りを詠んだ作品だ。山好きの詩人・正津勉の近著『人はなぜ山を詠うのか』で知った句だが、作者は山を花鳥諷詠的に詠むのではなく、実際に山にアタックしながら詠んでいる。したがって、彼の句には想像などではとても及ばないリアリティがあって力強い。山をやらない私のような読者にも、まざまざと伝わってくる。句は、炎天下の「岳(やま)」の岩肌に取っ付いて一息ついているときの感慨だが、この「しづか」にこそ岩登りの醍醐味の一つがあるのだろうと納得させられた。身体全体を使って、征服すべき対象に全力で挑む。日常の世界ではまずありえないことだし、「しづか」もまた日常のそれとはちがい、全身全霊にしみ込むような静謐感である。汗などはみな噴き出してしまった後の、一種の恍惚の状態と言うこともできようか。同書によれば、作者は俳誌「馬酔木」(昭和七年五月)に次のように書いている。「ロッククライミングの精神は火の如く熱烈であり、ときには氷の如く冷徹であらねばならぬ。どうしてもこの二つを詠ひ出さぬ限り満足な作品とは成し得ぬと思ふ。私は山を詠ふとき山に負けまいとする」。山岳俳句という新境地に賭けた気概が、ひしひしと伝わってくる件りだ。今日、彼の系譜を継ぐ登山家俳人はいるのだろうか。『山行』(1935)所収。(清水哲男)


August 0582012

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

頂、または山小屋、テント場で迎えた朝。眼下の雲海は、朝焼けに照らされながら、ゆっくりと尾根から、あふれるように下界に落ちていきます。句のモチーフは、光と雲と岩のみで、人も生き物も読みこまれていません。生命が誕生する前からある、太陽と地球との無言の挨拶。そこには「おはよう」という言葉もありません。しかし、滝のように尾根から谷へと流れ込む雲海の動きをみていると、地球そのものが生きているように思えてきます。私は高校時代、山岳部だったので、大雪、知床、南アルプスなどを縦走しましたが、ここ近年は下界の塵芥の住人に甘んじています。掲句のような荘厳で雄大な句を目にすると、久しぶりに重い腰を上げて、リュックサックを背負ってみようか、という気持ちになります。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)




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