May 202002
全身の色揚げ了り蛇の衣アーサー・ビナード季語は「蛇の衣(へびのきぬ)」で夏。蛇の抜け殻のこと。この季節に蛇は数回脱皮し、そのたびに体が大きくなる。「つゆぐさの露を透かして蛇の衣」(石原舟月)。掲句は、一昨日の余白句会で高点を得た(兼題は「色」)。田舎での私の少年時代に、抜け殻は草の中や垣根などあちこちで散見されたが、脱皮する様子そのものを見たことはない。作者もおそらくはそうなのであって、残された抜け殻からの想像だろう。この想像力は素晴らしい。蛇にしてみれば、成長過程における単なる一ステップにすぎないとしても、その際には全身全霊のエネルギーを極限まで使いきっての行為だろうと想像したわけだ。兼題にそくしてそのことを視覚的に述べると、「色揚げ了り」となる。まったき新しい体色を全力で完成させて、ぬるぬると殻を脱いでいった蛇の様子が、目に見えるようではないか。生命賛歌であると同時に、脱皮した後の蛇の運命をちらりと気にさせるところもあり、なかなかに味わい深い。作者のアーサー・ビナード(Arthur Binard)は、1967年アメリカミシガン州生まれ。二十歳の頃ヨーロッパへ渡り、ミラノでイタリア語を習得。90年、コルゲート大学英米文学部を卒業。卒論の際、漢字に出会い、魅惑されて来日。日本語での詩作翻訳を始め、詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞を受賞。どういうわけで余白句会に参加したのかは、私には不明だが、とにかく並の日本人以上に日本語ができる。余白句会では「日本語のことなら、漢字でも何でもアーサーに聞け」というくらいだ。いつどこでどうやって、それこそ彼は「脱皮」したのか。自転車好きにつき、俳号は「ペダル」。(清水哲男) April 242009 立ち上がるまつ青な草蛇脱げり秋本敦子現実の風景や事物から得られる瑞瑞しい実感と、そこから発する動的なエネルギーが表現に満ちている。蛇の脱皮の営みを包み込む草原の息吹が感じられる。草を動的に捉えて「立ち上がる」というところ。草に対して敢えて「まつ青」と形容するところ。季題である蛇の衣や蛇皮を脱ぐとは違う「蛇脱げり」と舌足らずのようにいうところ。すんなりと書かれているように見える表現のひとつひとつに強烈な作者の個性と工夫が生かされている。過去の文体やら「俳諧味」やらにちょっと自己流をトッピングして俳句巧者を気取る俳人も多い。そういう俳人に限って「だいたい典拠のない表現なんか成り立つのかね」とうそぶく。この句のように、まっさらな自分だけのものへの希求無くしてどこに文学の志があろうか。『幻氷』(2002)所収。(今井 聖) June 032009 蛇の衣草の雫に染まりけり巌谷小波十年ほど前に房総の山間を歩いていたとき、偶然に蛇の衣をまるごと見つけた。垣根にまだ脱ぎたてといった感じで、生なましく濡れて光っている衣に思わず息を呑んだ。まだ濡れている衣の生なましさと妖しい美しさ。おそるおそるそれを破れないように垣根からはずし、そっと持ち帰った。頭のてっぺんから尾の先まで60cm余りあった。乾いてから額縁に入れて今も部屋に飾ってある。掲出句の「雫に染まりけり」の息づいているような美しさに、思わず目がとまった。朝まだきだろうか、雨があがって間もない頃の実景だろうか。そのものは蛇の「かわ」ではなく、まさに「きぬ」としか呼びようのない繊細さである。「蛇の殻」とも呼ぶし、意味はその通りではあるけれど、「衣」のほうがあの実物にはふさわしい。「蛇皮」とは意味が違う。「蛇の衣」がもつ繊細さと「草の雫」の素朴な美しさ、その取り合わせが生きている。富安風生の句に「袈裟がけに花魁草に蛇の衣」があるが、私が発見したそれも「袈裟がけ」という状態だった。蛇の脱皮は年に五、六回くり返されるという。マムシもアオダイショウもヤマカガシも、蛇は夏の季語。小波は白人会を主催して、軽妙洒脱な俳句をたくさん残した。「月細く山の眠を守りけり」。句集『さゝら波』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄) June 012010 苦しむか苦しまざるか蛇の衣杉原祐之
人間が抱く感情の好悪は別として、蛇が伝承や神話などに取り上げられる頻度は世界でトップといえるだろう。姿かたちや生態など、もっとも人間から離れているからこそ、怖れ、また尊ばれてきたのだと思う。また、脱皮を繰り返すことから豊穣と不滅の象徴とされ、その脱ぎ捨てた皮でさえ、財布に入れておくと金運が高まると信じられている。掲句では、残された抜け殻の見事さと裏腹に、手も足もなく、口先さえも不自由であろう現実の蛇の肢体に思いを馳せつつ、背景に持つ神話性によって再生や復活の神秘をも匂わせる。以前抜け殻は、乱暴に脱いだ靴下のように裏返しになっていると聞いたことがあったが、この機会に調べてみようとGoogleで検索してみるとそのものズバリのタイトルがYouTubeでヒットした。おそるおそるクリックし、今回初めて脱皮の過程をつぶさに見た。もう一度見る勇気はないが、顔面から尻尾へと、薄くくぐもった皮膚からつやつやと輝く肢体への変貌は、肌を粟立たせながらも目を離すことができないという不思議な引力を味わった。はたして彼らはいともたやすく衣を脱ぎ捨てていたのだった。〈雲の峰近づいて来てねずみ色〉〈蜻蛉の目覚めの翅の重さかな〉『先つぽへ』(2010)所収。 October 032014 鵙遠音魚板打ちても応答なし景山筍吉鵙の甲高い鳴き声は遠くまで届く。澄んだ秋の空気の中訪れた禅寺には人気が無い。どこか奥まった所でお勤めをしているのかも知れない。柱を見ると魚板と小槌がぶら下がっている。これが呼び鈴代わりかと早速叩いてみる。手応えのある音の割には中からの応答(いらへ)が無い。どこか心細くなる。寺へ悩み事の相談に訪ねたのであれば尚更のこと。因みに景山筍吉が敬虔なクリスチャンであった事を思うと、問うて答えのない不安な心を見てしまうのである。神仏に声は無い。他に<繰り返へす凡愚の日々の蚊遣かな><友情の嘘美しき月の道><キリシタン処刑跡なり蛇の衣>など。『白鷺』(1979)所収。(藤嶋 務)
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