本日は夜の会議。九時近くになってくると睡魔に襲われる。飲み屋では平気なのに……。




2002ソスN6ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1062002

 花桐や手提を鳴らし少女過ぐ

                           角川源義

語は「花桐(桐の花)」で夏。もう、北国でも散ってしまったろうか。遠望すると、ぼおっと薄紫色にけむっているような花の様子が美しい。そんな風景のなかを、少女が手提(てさげ・バッグ)の留め金をパチンと鳴らして快活に通り過ぎていった。このときに少女は、作者とは違い花桐などになんらの関心も示していないようだ。それが、また良い。関心を示したとすれば、句の空気がべたついてしまう。まさに、清新な夏来たるの感あり。それも、優しくやわらかく、そして生き生きと……。句はこれだけのことを伝えているのだから、こう読んで差し支えないわけだが、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(角川ソフィア文庫)に作句時の背景が書かれており、それを読むと、さらに清新の気が高まる。「白河の関を過ぎたときの句。だから、古人が冠を正し、衣裳を改めて関を越えたことも思い出されているのであって、その昔に対比して、ハンドバッグの止金を鳴らしながら颯爽と過ぎてゆく現代の無心の少女の様が、作者の心に残るのである」。ちなみに、白河の関は古代奥州の南の関門。福島県白河市旗宿(はたじゅく)所在。『神々の宴』(1969)所収。(清水哲男)


June 0962002

 日曜はすぐ昼となる豆の飯

                           角 光雄

語は「豆の飯(豆飯)」で夏。会社勤めの人ならば、ほとんどの人が共感を覚える句だろう。日曜日はいささかの朝寝をすることもあるけれど、実際すぐに昼が来てしまう。昨晩までは、あれもしようこれもしようなどと思っていたのに……。一見、小学生にでも詠めそうな句だ。が、そうはいかないのが「豆の飯」と結んだところ。昼食に旬の豆飯とは、ちょっとしたご馳走である。目へのご馳走、そしてもとより舌へのご馳走。日頃は味気ない外食を強いられている夫への、妻のささやかな心尽くしなのだ。作者は「おっ、もうこんな季節か」と嬉しく感じ、しかし同時に、自分が無為に過ごした午前中の時間を、妻が手間のかかる豆飯のために時間を上手に使ったことに思いが及んでいる。焦りとまではいかないのかもしれないが、なんとなく自分が怠惰に思えた一瞬でもある。豆の緑に真っ白い飯の鮮やかな対照が、ことさらに目に沁みる。私もサラリーマンと似たような日々を送っているので、この句は心に沁みた。そしてさらに、うかうかしていると明るい時間は瞬く間に過ぎてしまい、あっという間にテレビの「サザエさん」タイムがやってきて、明日の仕事のことなどをちらちらと思いはじめるのだ。哀しきサガと言うなかれ。でも、やっぱり哀しいのかな……。『現代秀句選集』(1998・別冊「俳句」)所載。(清水哲男)


June 0862002

 夜の雲やラムネの玉は壜の中

                           真鍋呉夫

語は「ラムネ」で夏。一読、漠然たる不安な感じに誘われた。月が出ているのだろう。いくつもの雲の端のほうが、月光を反射して少し明るくなっている。濁った色合いの雲だ。それらの雲が風に乗って移動していく様子を、作者は「ラムネ」を片手に眺めている。「夜の雲」ではなく「夜の雲や」というのだから、そんな雲に心を引かれていることがわかる。では、どのように引かれているのか。それが中七下五句で明らかにされ、明らかにされると同時に不安感が立ち上るという仕組みだ。さて「ラムネの玉」もまた、いささかの濁った色合いを持っている。決して、透明ではない。しかも半透明の「壜(びん)の中」にあるので、なおさらに濁りを帯びて見える。雲の色は天然自然の濁りであり、ひるがえってラムネの玉のそれは人工の濁りだ。このときに作者は、自分がまるで瓶の中の玉のようだと感じたのだと思う。いかに純粋を希求してもついに透明にはなることは適わず、濁りを帯びたままの存在であるしかないのだ、と。しかもその濁りは、夜の雲のように天然自然に発したものではなく、あくまでも人工的なそれでしかない。こう読むと、壜は文明社会を暗示しており、玉は好むと好まざるとに関わらず文明社会に取り込まれた人間存在の比喩となるだろう。そこでもう一度上五に戻ると、すっかりラムネの玉と化した自分が、夜の雲を見上げている気持ちにさせられる。不安感は、私自身のラムネの玉化によるものと思われる。『眞鍋呉夫句集』(2002・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)




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