『増俳』セレクション(七月下旬刊)のための後書きを書かねば。もっとも苦手な仕事。




2002ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162002

 子の皿に塩ふる音もみどりの夜

                           飯田龍太

語は「みどり(緑)」で夏。「新緑」は初夏だが、「緑」は夏たけてくる頃の木々の葉の様子だ。安東次男の『六月のみどりの夜わ』(「わ」は誤記に非ず、為念)という詩集を若き日に読んだ印象が強烈なせいか、「みどりの夜」というと、私はいつも蒸し暑い六月の夜を思ってしまう。それでなくとも暑いのに、繁った青葉が夜の闇のなかにこんもりと沈んでいるとなれば、そこから大気が生暖かく湿ってくるようで、余計に蒸し暑さを感じさせられる。そこに、サラサラっと乾いた「塩ふる音」がする。かそけくも心地よい音だ。子供の小さな皿だから、ほんの少量の塩をふりかけただけだろう。が、その音が聞こえるほどの静かな夜なのであり、これもまた「みどりの夜」ならではの感興であると、作者には思えた。少しく大袈裟に句の構図を描いておけば、蒸し暑さを疎んじる心がすうっと消えて、むしろ周辺の「みどりの夜」は、家族とともにある作者を優しく包み込んでくれている存在だと、そちらのほうに心が移行していくきっかけを詠んでいるのだろう。蛇足ながら、昔の「塩壺」の塩をふっても、とくにこの季節には、このように乾いた音はしない。私が子供だった頃の塩は、いつだって塩壺に湿ってたっけ。『忘音』(1968)所収。(清水哲男)


June 1062002

 花桐や手提を鳴らし少女過ぐ

                           角川源義

語は「花桐(桐の花)」で夏。もう、北国でも散ってしまったろうか。遠望すると、ぼおっと薄紫色にけむっているような花の様子が美しい。そんな風景のなかを、少女が手提(てさげ・バッグ)の留め金をパチンと鳴らして快活に通り過ぎていった。このときに少女は、作者とは違い花桐などになんらの関心も示していないようだ。それが、また良い。関心を示したとすれば、句の空気がべたついてしまう。まさに、清新な夏来たるの感あり。それも、優しくやわらかく、そして生き生きと……。句はこれだけのことを伝えているのだから、こう読んで差し支えないわけだが、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(角川ソフィア文庫)に作句時の背景が書かれており、それを読むと、さらに清新の気が高まる。「白河の関を過ぎたときの句。だから、古人が冠を正し、衣裳を改めて関を越えたことも思い出されているのであって、その昔に対比して、ハンドバッグの止金を鳴らしながら颯爽と過ぎてゆく現代の無心の少女の様が、作者の心に残るのである」。ちなみに、白河の関は古代奥州の南の関門。福島県白河市旗宿(はたじゅく)所在。『神々の宴』(1969)所収。(清水哲男)


June 0962002

 日曜はすぐ昼となる豆の飯

                           角 光雄

語は「豆の飯(豆飯)」で夏。会社勤めの人ならば、ほとんどの人が共感を覚える句だろう。日曜日はいささかの朝寝をすることもあるけれど、実際すぐに昼が来てしまう。昨晩までは、あれもしようこれもしようなどと思っていたのに……。一見、小学生にでも詠めそうな句だ。が、そうはいかないのが「豆の飯」と結んだところ。昼食に旬の豆飯とは、ちょっとしたご馳走である。目へのご馳走、そしてもとより舌へのご馳走。日頃は味気ない外食を強いられている夫への、妻のささやかな心尽くしなのだ。作者は「おっ、もうこんな季節か」と嬉しく感じ、しかし同時に、自分が無為に過ごした午前中の時間を、妻が手間のかかる豆飯のために時間を上手に使ったことに思いが及んでいる。焦りとまではいかないのかもしれないが、なんとなく自分が怠惰に思えた一瞬でもある。豆の緑に真っ白い飯の鮮やかな対照が、ことさらに目に沁みる。私もサラリーマンと似たような日々を送っているので、この句は心に沁みた。そしてさらに、うかうかしていると明るい時間は瞬く間に過ぎてしまい、あっという間にテレビの「サザエさん」タイムがやってきて、明日の仕事のことなどをちらちらと思いはじめるのだ。哀しきサガと言うなかれ。でも、やっぱり哀しいのかな……。『現代秀句選集』(1998・別冊「俳句」)所載。(清水哲男)




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