「ニッポン、チャチャチャ」第四日。仕事中にキックオフ。その後打合せで見られない。




2002ソスN6ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1862002

 蛇苺いつも葉っぱを見忘れる

                           池田澄子

語は「蛇苺(へびいちご)」で夏。おっしゃる通り。たまに蛇苺を見かけても、ついつい派手な実のほうに気をとられて、言われてみればなるほど、「葉っぱ」のほうは見てこなかった。こういうことは蛇苺にかぎらず、誰にでも何に対してでも日常的によく起きることだろう。木を見て森を見ず。そんなに大袈裟なことではないけれど、私たちの目はかなりいい加減なところがあるようで、ほんの一部分を認めるだけで満足してしまう。いや、本当はいい加減なのではなくて、目が全焦点カメラのように何にでも自動的にピントがあってしまつたら、大変なことになりそうだ。ものの三分とは目が開けていられないくらいに、疲れ切ってしまうにちがいない。その意味で、人の目は実によくできている器官だと思う。見ようとしない物は見えないのだから。それにしても、やはり葉っぱを見ないできたことは気になりますね。このあたりが、人心の綾の面白さ。ならば、一度じっくり見てやろうと、まことに地味な鬼灯の花にかがみこんだのは皆吉爽雨だった。「かがみ見る花ほほづきとその土と」。その気になったから「土」にまでピントがあったのである。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


June 1762002

 薔薇園一夫多妻の場を思ふ

                           飯田蛇笏

語は「薔薇(ばら)」で夏。句の「薔薇園」は「そうびえん」と読ませている。我が家からバスで十分ほどのところに神代植物公園があって、ここの薔薇園は有名だ。シンメトリックに設計された沈床式庭園に、約240品種5,000余本の薔薇が植えられている。たまに見に出かけるが、あまりの花の数に圧倒されて、いつも疲れてしまう。この句がどこの薔薇園を詠んだものかは知らないけれど、華麗なれどもいささか鬱陶しい感じを「一夫多妻」と言ったのだろう。蛇笏というと、冷静沈着にして生真面目な人格を連想してしまうが、こんなユーモラスな一面があったのかと嬉しくなった。たしかに薔薇園の薔薇は、互いに妍を競い芳香を競っているかのようだ。そういえば、薔薇の名前にはクレオパトラなどの女性名が多い。神代には、マリア・カラスなんて品種もあった。それにしても、人の想像力にはへんてこりんなところがありますね。私など薔薇に女性を感じてはいても、一夫多妻とまでは思いも及ばなかった。言われてみてはじめて、なるほどと感心するばかり。ちなみに、逆に薔薇を男だと言ったのは、たしかサトウ・ハチローだったと思う。うろ覚えだが、♪きれいな花にはトゲがある、きれいな男にゃ罠がある、知ってしまえばそれまでよ、知らないうちが花なのよ……と、男に騙された女を描いた。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)


June 1662002

 国あげてひがし日傘をさしゆけり

                           大井恒行

くは、わからない。が、ずうっと気になっていた句。漠然とした理解では、「国あげて」同じ一つの方向(ひがし)に日傘の行列が歩いていくということだろう。ぞろぞろと何かに魅入られたように、みなが炎天下を同じ方角を目指して歩いているイメージは、とても不気味だ。「国あげて」だから、一億の日傘の華が開かれている。「さしゆけり」ゆえ、もはや後戻りはできない行列である。すでに出発してしまった以上は、もう誰にも止めることはできない行進なのだ。では、何故「ひがし」なのか。「日出づる処の天子」の大昔より、この国の為政者にとって東方に位置することそれ自体が価値であり、プライドの源であった。たとえば明治節の式歌にも「アジアの東、日出づるところ、ひじり(聖)の君のあらはれ(現れ)まして、……」とあって、とにかく東方は特別な方角なのだ。逆に西方には十万億土があるわけで、こちらは死後の世界だから暢気に日傘などさして行ける方角ではないだろう。つまり掲句は、国民があげて無自覚に一つの方向に引きずられていく状況を、比喩的に語っている……。ただ、よくわからないのは「ひがし」の用法だ。「ひがし」は「東」であるとしても、「ひがし『へ』」とは書いてない。もしも、この「ひがし」が方角を表していないのだとすれば、私の漠然たる理解も完全に吹っ飛んでしまう。何故、中ぶらりんに「ひがし」と吊るしてあるのだろうか。ぜひとも、読者諸兄姉の見解をうかがいたいところだ。『風の銀漢』(1985)所収。(清水哲男)




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