句集俳誌を送ってくださる方々に、お礼状一本書けない。多謝。丁寧に拝見しています。




2002ソスN6ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2662002

 浦島太郎目覚めの床にあまがえる

                           夏石番矢

語は「あまがえる(雨蛙)」で夏。玉手箱を開けてしまった後の「浦島太郎」落魄の景と読んだ。竜宮城での遊びに飽きて、故郷に戻ってみれば我が家もなければ知る人もいない。三年ほどの滞在のつもりが、実は三百年も(七百年説も)経っていたというお話。やっとの思いで一夜の宿を得て、目覚めると同じ「床」に「あまがえる」がきょとんとした顔で坐っていた。人も風景もみんな変わってしまったなかで、この雨蛙だけは昔と同じ姿かたちをしている。迎えてくれたのは、お前だけか。何故こんなところに雨蛙がいるのかなどの疑問よりも先に、太郎の心は懐かしさでいっぱいになっている。いるはずもない床に雨蛙を配したことで、太郎の孤独がいっそう深まっている。浦島伝説の解釈には諸説あるが、私は地域共同体を外れた者に対するいましめのための話だと思う。伝説の原型は古く『日本書紀』にあって、ある男が海上で出会った絶世の美女とどこか遠い国に行ってしまい、ついに戻ってこなかったという。どうやら、異民族との結婚話らしい。当時の人々には、おそらくまだ共同体防衛の意識などなかったろうから、憧憬譚めいたニュアンスがある。ところが今に伝わる話は、武家が天下を取った鎌倉室町期の脚色らしく、異民族や他所者との結婚や交流は共同体破壊につながるから、これを暗示的にいましめているというわけだ。すなわち、浦島太郎は共同体破壊者であり、そんなけしからん男が最後にはどんな目にあうかという「みせしめ」なのであった。『巨石巨木学』(1995)所収。(清水哲男)

[ありがとうございます]複数の読者の方から、掲句の「目覚めの床」は、木曽山中の「寝覚めノ床」のことではないかというご指摘をいただきました。おそらく、そうでしょうね。と言うか、意識した句だと思います。ただ、あえて作者が「目覚めの床」と言い換えたのは、踏まえていることを読者に伝えつつ、そうした景勝の地ではなくて別の場所(私の解釈では、ごくありふれた何でもない室内)に、浦島太郎を「普通の人」として置きたかったのだと思います。


June 2562002

 我老いて柿の葉鮓の物語

                           阿波野青畝

語は「鮓(すし)」で夏。若い人たちのいる席で、いっしょに「柿の葉鮓」を食べているのだろう。もはやこの鮓の由緒を知らない人たちに、発祥の由来などを話して聞かせている。そして、こういう「物語」を知っている自分が、ずいぶんと「老いて」いることに、あらためて気がついたのだった。私なども、話ながらときおり実感することがある。自分では何の気なしに話していることだが、周囲の反応で、それと気づかされる。そこでショックを受けるというよりも、みずからの老いを淡々と認める気分だ。さて、柿の葉鮓は奈良吉野地方の名物だ。なぜ海から遠いこの地方で、海の魚を使う(古くは鯖のみを使用したらしい)鮓が名物になったのだろうか。いくつかある柿の葉鮓販売の会社のHPを参照して、それこそ少し物語っておけば、次のようである。その昔(江戸時代中期)、吉野に運ばれてくる海の魚は熊野灘から伯母峰を越えて行商人の背負い籠で運ばれてくるか、紀の川沿いに運ばれてくるかのどちらかだった。もちろん今と違って人力で運ぶのだから、二日ほどの行程がかかったという。そのために浜塩と言って、魚が傷まないように多量の塩を腹に詰めて運んだ。山里の吉野に魚が届くころには、塩気がまわりすぎ、煮ても焼いてもショッパくて食べられないほどで、その身を薄くそいで白御飯にのせて食べることを思いついたのがはじまりとされる。柿の葉のほうはそこらへんに沢山あったので、試しに巻いてみたら、よい香りがして美味かったからというところか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


June 2462002

 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂

                           夏目漱石

語は「蚊」で夏。「田原坂(たばるざか)」の解説は、電子百科事典にゆずる。「熊本県北部、鹿本(かもと)郡植木町田原地区にある三池往還の坂道。玉名平野に連なる木葉(このは)川流域の低地から、いわゆる肥後台地の西端に上る途中にある一の坂、二の坂、三の坂の総称。侵食谷であるため、標高のわりには曲折した急崖(きゅうがい)が随所にみられ、西南戦争(1877)では、この地形的特徴から官軍・薩(さつ)軍入り乱れての白兵戦の舞台となった。[(C)小学館]」。この歴史的事実を踏まえて読むと、漱石を刺した「蚊」の様子がよくうかがえる。蚊の種類や生態については何も知らないけれど、いわゆるヤブカに刺されたのだろう。あいつに刺されると、ひどく痛い。そこらへんの蚊と違って、痛さの上にずしんと重みが加わる。問答無用、物も言わずに「鳴きもせで」必殺の剣ならぬ必殺の針が「ぐさと」肉を刺し、ぐいと鋭くえぐる感じとでも言えばよいのか。この身を捨ててこその獰猛性が、漱石に田原坂での白兵戦を想起させたのだ。しかも、詠んだのが西南戦争から二十年しか経っていない頃だから、想起の中身はとても生々しかったはずだ。たまたま田原坂で、たかが蚊に刺されたくらいで大袈裟なと、笑い捨てるわけにはいかない凄みのある句だと思った。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)




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