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June 2962002

 山奥に叔父ひとりおり山椒魚

                           寺田良治

語は「山椒魚(さんしょううお)」で夏。山間の渓流などに生息し、山椒に似た体臭があるのでこの名がついたそうだ。私は、水族館でしか見たことはない。トカゲの親分みたいな姿をして、いつ見ても不機嫌そうにムーッとしている。そんな山椒魚に係累があるとしたら、どんな関係があってどこに住んでいるのだろう。と、たいていの人が思いもしないことを思いついてしまうのが、作者のユニークなところ。「山奥に叔父ひとりおり」と言われてみれば、たしかにそんな気がする。その叔父もまた、山奥で同じようにムーッとしているのかと想像すると、とても可笑しい。同時に、両者はおそらく音信不通だろうし、彼にはもはや母や父もいないと知れるから、ちょっぴり可哀想な気もする。良質なペーソスが、じわっと感じられる佳句だ。他の「洗濯が好きでヨットに乗っている」や「ソーダ水しゅわっと泡立つお葬式」などと読みあわせて、かなり若い人の句かと思って略歴を見たら、私よりもずっと年長だった。還暦を過ぎて俳句をはじめたのだというから、驚きだ。「読みながら笑ってしまう句集である。こんな句集はめったにない」と、跋文で坪内稔典が書いている。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


June 2262009

 山椒魚あらゆる友を忘れたり

                           和田悟朗

椒魚と聞けば、井伏鱒二の短編を思い出す。近所の井の頭自然文化園別館に飼育されているので、たまに見に行くが、いつも井伏の作品を反芻させられてしまう。この国では、本物の山椒魚よりも、井伏作品中のそれのほうがポピュラーなのかもしれない。この句を読んだ時にも、当然のように思い出した。作者にしても、おそらく井伏作品が念頭にあっての詠みだろう。文学、恐るべし。谷川にできた岩屋を棲家としている山椒魚は、ある日突然、その岩屋の出口から外に出ることができなくなるほど大きくなってしまっていることに気づく。大きくなった頭が、岩屋の出口につっかえてしまうのである。孤独地獄のはじまりだ。そこでついには、岩屋の中に入り込んできた蛙を自分と同じ境遇にしてしまえと考えて、閉じ込めてしまう。彼らのその後の運命については、書かれていないのでわからない。しかし、たぶんその蛙は先に死んでしまい、その後の山椒魚は孤独の果てに、ついには世俗へのあらゆる関心を失って行く。ただ、ぼおっとしていて、ほとんど身じろぎすらもしない存在と化してしまう。そのことを「あらゆる友を忘れたり」と一言で表現した作者の想像力は深くて重い。なんという哀しい言葉だろうか。今度山椒魚を見る時には、私はきっとこの句を思い出すにちがいない。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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