マンション大修繕工事完了。積立金の半分にあたる一億円近くかかった。やっと静かに。




2002ソスN7ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0572002

 緑陰に話して遠くなりし人

                           矢島渚男

語は「緑陰(りょくいん)」で夏。青葉の繁りが作る陰のこと。美しい言葉だ。最初に使ったのは、どこの誰だろう。万緑などとと同じように、やはり昔の中国の詩人の発想なのだろうか。作者に限らず、このように「遠くなりし人」を懐かしむ心は、ある程度の年齢を重ねてくれば、誰にも共通するそれである。真夏の日盛りの下で話をするとなれば、とりあえず木陰に避難する他はない。話の相手が同性か異性かはわからないけれど、私はなんとなく異性を感じるが、むろん同性だって構わないと思う。異性の場合にはウワの空での話だったかもしれないし、同性ならば激論であったかもしれない。とにかく、暑い最中にお互い熱心に戸外で話し合うことそれ自体が、濃密な時間を過ごしたことになる。それほどの関係にありながら、しかし歳月を経るうちに、いつしか「遠くなりし人」のことを、作者はそれこそ緑陰にあって、ふと思い出しているのだろう。あのときと少しも変わらぬ緑陰なれど、一緒に話した「人」とはいつしか疎遠になってしまった。どこで、どうしているのか。甘酸っぱい思いが涌いてくると同時に、もはや二度と会うこともないであろうその「人」との関係のはかなさに、人生の不思議を感じている。句の第一の手柄は、読者にそれぞれのこうした「遠くなりし人」を、極めてスゥイートに思い出させるところにある。美しい「緑陰」なる季語の、美しい使い方があってのことだ。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


July 0472002

 上野から見下す町のあつさ哉

                           正岡子規

まり暑くならないうちに、書いておこう。高浜虚子編『子規句集』明治二十六年(1893年)の項を見ると、「熱」に分類された句がずらり四十一句も並んでいる。病気などによる「熱」ではなく「暑さ」の意だ。体感的な暑さを読んだ句(「裸身の壁にひつゝくあつさ哉」)から精神的なもの(「昼時に酒しひらるゝあつさ哉」)まで、これだけ「熱」句をオンパレードされると、げんなりしてしまう。とても、真夏には読む気になれないだろう。「上野」はもちろん、西郷像の建つ東京の上野台だ。句が詠まれたときには、既に公園は完成しており動物園もあった。いささかの涼味を求めてか、上野のお山に登ってはみたものの、見下ろすと繁華な町からもわあっと熱風が吹き上がってくるではないか。こりゃあ、たまらん。憮然たる子規の顔が浮かんでくる。現代の上野にも、十分に通用する句である(今のほうが、もっと暑いだろうけれど)。他にも「熱さ哉八百八町家ばかり」とあって、とにかく家の密集しているところは、物理的にも精神的にも暑苦しい。ましてや、子規は病弱であった。「八百八町」の夏の暑さは、耐え難かったにちがいない。句集の「熱」句パレードは、「病中」と前書された次の句によって止められている。「猶熱し骨と皮とになりてさへ」。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


July 0372002

 羅に透けるおもひを怖れをり

                           櫛原希伊子

語は「羅(うすもの)」で夏。絽(ろ)、紗(しゃ)など、絹の細い繊維で織られた単衣のこと。薄く、軽やか。女性ものが多い。作者自註、「たいした秘密でないにしても、知られたくないこともあるもの。透けるとしたら絽よりも紗の方があやうい気がする」。肌や身体の線が透けることにより、心の中までもが透けて見えてしまいそうだというこの感覚は、まず、男にはないものだろう。俳句を読んでいると、ときおりこうしたさりげない表現から、女性を強く感じさせられることがある。作者は別に自分が女であることを強調したつもりはないと思うが、男の読者は「はっ」とさせられてしまうのだ。逆に意識した例としては、たとえば「うすものといふをはがねの如く着て」(清水衣子)があげられる。薄いけれども「はがねの如く」鋭利なのだよと言うのだが、むしろこの句のほうに、作者の心の内がよく見て取れる面白さ。いずれにしても、女性でなければ発想できない世界だ。前述したように、本来「羅」は和装衣を指したが、最近では夏着一般に拡大して使うようになってきた。小沢信男に「うすものの下もうすもの六本木」がある。この女性たちに、掲句の味わいというよりも、発想そのものがわかるだろうか。私としては、問うを「怖れ」る。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)




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