小学一年ドイツ孫、算数はできたようだ。が、理科の「テントウムシ」は理解不能なり。




2002ソスN7ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1072002

 夏鶯さうかさうかと聞いて遣る

                           飯島晴子

語は「夏鶯」。夏は鶯の繁殖期で、巣作りのために山の中に入ってしまう。だから、夏の鶯の鳴き声は高原や山岳地帯で聞くことが多い。「老鴬(ろうおう)」の名もあるが、実際に老いた鶯を言うのではない。春には人里近くで鳴く鶯が、夏の山中ではまだ鳴いていることから、主観的に「老」を連想した命名だろう。作者には、いわば世間から忘れ去られてしまったような鶯が、懸命に何かを訴えかけてきているように聞こえている。むろん訴えの中身などはわかるわけもないけれど、「さうかさうか(そうかそうか)」と何度もうなずいて、聞いてやっている。思わずも微笑させられるシーンだ。が、作者自身はどんな気持ちから書いたのだろうか。言い添えておけば、晩年の句だ。ここで、夏鶯は小さな生命の象徴である。そんな小さな生命の存在に対して、若年の日には思いも及ばなかった反応をする自分がいることに、作者はしみじみと不思議を感じているような気がする。どこにも自分が「老いた」とは書かれていないが、自然な気持ちでうなずいている自分の様子を句として差し出すことで、不思議を断ち切り、免れがたい老いを素直にまるごと認めようとしたのではあるまいか。微笑しつつも、私にはみずからの近未来の姿が重なってくるようで、だんだん切なくもなってくる……。『平日』(2001)所収。(清水哲男)


July 0972002

 命令で油虫打つ職にあり

                           守屋明俊

語は「油虫」(「ごきぶり」とも)で夏。同じ句集に「ごきぶりを打ちし靴拭き男秘書」とあり、作者の「職」種がわかる。会社の秘書室などというところは、一般社員からすると一種伏魔殿のように思える部署だ。いつも落ち着きはらった顔の秘書たちは、とうてい同じ社員とは写らない。そんな秘書のイメージをぶち破る句でなかなかに痛快だけれど、当の秘書である作者にしてみればとんでもない話なのである。自嘲しながらも、「命令」だから「油虫」を打ってまわらねばならない。脱いだ靴を手に油虫の出現に身構える男の姿は、テレビドラマにでも出てきそうだ。こんな姿は、家人にも友人知己にも見せられない。でも、いまはこれが俺の仕事なのだと思うと、ひどくみじめに感じる反面、一方では笑いだしたくなる気分も涌いているのではあるまいか。程度の差はあれ、どんな職業に従事しようとも、類したことは多少とも身にふりかかるだろう。業務「命令」はとりあえず順守しなければ契約違反になりかねないので、とりあえずこなさなければならない。なんて固いことを言う前に、昔からの社風といったものが無言の圧力となって、たいていの人は我慢しているのではあるまいか。まことに、家族を養い食っていくのは忍耐のいることだ。親は革靴にぎらせて、ごきぶり殺せとをしへしや……。君泣きたまふこと勿れ。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


July 0872002

 北へ展く野面の光蛇の光

                           酒井弘司

語は「蛇」で夏。「川越四句」のうちの一句。埼玉県川越市を訪れたときの句だ。「川越市は、埼玉県の中央部よりやや南部、武蔵野台地の東北端に位置しています。東西16.27km、南北13.81kmで面積は109.16平方キロです。西から東へ向けてゆるやかに傾斜していますが、全体的に平坦で、おおまかには北東部の水田地帯、中央部の市街地、南西部の畑地帯に分けられます」(川越市HP)。この説明からすると、作者は「北東部の水田地帯」に向いていることになる。まさに「北へ展(ひら)く」の情景だ。広大な「野面(のづら)の光」が、目に心地よい。さて、読みどころは「蛇の光」だけれど、野面に見えるシルバー・グレイの光といえば、川のそれではあるまいか。広々とした野を蛇行しながら流れている川の光が、作者をして即興的に「蛇の光」と言わしめたのだと思われる。実際に、たとえば池袋から東武東上線で川越に向かうと、車窓から新河岸(しんがし)川の流れを見ることができる。江戸期には、川越から江戸に食料や燃料などを運ぶ一大水上ハイウエイであった。この川を地図で見ると、文字通りにうねうねと蛇行している。知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が川越藩主になってから、舟の運行に適するように故意に多くの屈曲をつけ、水量を保持するなどの改修を行ったためという。「九十九曲がり仇ではこせぬ通い船路の三十里」(船頭歌)。そういうことを思い合わせれば、作者の目は水平に野面や川を見ているのと同時に、もう一つ、はるかな高見から俯瞰的に見ている目が感じられる。気持ち良くもスケールの大きな句柄は、このいわば複眼の産物だと理解した。俳誌「朱夏」(2002・43号)所載。(清水哲男)




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