日曜日。ぼんやりと過ごしたいと思っていると、きっと何かが起きてしまう。緊張緊張。




2002ソスN7ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1472002

 巴里祭モデルと画家の夫婦老い

                           中村伸郎

語は「巴里祭(パリ祭)」で夏。読みは「パリーさい」。七月十四日、フランスの革命(1789)記念日である。ルネ・クレールの映画『七月十四日』が、日本では『巴里祭』と訳され紹介されたことに由来する命名だ。したがって、日本でのこの日は、血なまぐさい革命からは遠く離れた甘美な雰囲気の日として受容されてきた。そして、パリは20世紀の半ば過ぎまで、日本の芸術家にとって憧れの都であり、とりわけて画家たちの意識のうちには「聖都」の感すらあったであろう。美術史的な意義は省略するけれど、実際にパリに渡った青年画家たちの数は数えきれないほどだったし、掲句のようなカップルが誕生することも自然のことだったと思われる。とはいえ、句のカップルがフランス女性と日本男性を指しているのかどうかはわからない。日本人同士かもしれないが、しかし、二人の結びつきの背景には、こうしたパリへの憧れや情熱を抜きにしては語れないことからの季語「巴里祭」なのだ。その二人が、かくも老いてきた。そして、他ならぬ自分もまた……。作者は、たぶん文学座の役者で小津映画にもよく出ていた「中村伸郎」だろう。そう思って読むと、句の物語性はかなり舞台的演劇的である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


July 1372002

 人間に火星近づく暑さかな

                           萩原朔太郎

句については、昨年前橋文学館で、以下のように話しました。速記録より、ほぼそのまんま。……今みたいに解明された、あそこには何もないんだよ、という火星とは、ちょっと朔太郎の使った時代には違っていて、もう少し、火星には何かあるに違いない、というような火星が近づいてきてるわけですね。この「人間に近づく」っていうのが手柄だと思いますよ。「地球」に近づくだったら、あまり面白くなくなる。「人間」に「火の玉」のような星が近づいてくる。だから「暑さかな」ってのは、暑くてかなわん、というよりも、何かこう暑さの中に不気味なものが混ざっているような暑さということで、単にもう、暑いから水浴びでもするかっていうふうなことじゃなくて、水浴びなんかしたって取れないような暑さ、ちょっと粘り着くような暑さが感じられる句で、冬に読むとあまり実感が湧かないかもしれません。これ真夏の暑いときに、暑さにもいろいろありますからね、もう本当に暑くて暑くて何も考えられなくて、シャワーでも浴びるかっていうのもあれば、何か不気味な感じの、何か粘つくような暑さっていうのもあって、どっちかっていうと、これは粘つくような暑さを読んだ句だなあと思って、これはなかなか、なかなかというと失礼ですけど、これは非常に、非常な名句だと思います。『萩原朔太郎全集・第三巻』(1986・筑摩書房)所収。(清水哲男)


July 1272002

 かはほりの天地反転くれなゐに

                           小川双々子

語は「かはほり(蝙蝠・こうもり)」で夏。夜行性で、昼間は洞窟や屋根裏などの暗いところに後肢でぶら下がって眠っている。なかには「かはほりや仁王の腕にぶら下り」(一茶)なんて奴もいる。したがって、句の「天地反転」とは蝙蝠が目覚めて飛び立つときの様子だろう。「くれなゐ」は「くれなゐ(の時)」で、夕焼け空が連想される。紅色に染まった夕暮れの空に、蝙蝠たちが飛びだしてきた。「天地反転」という漢語の持つ力強いニュアンスが、いっせいに飛び立った風情をくっきりと伝えてくる。そして、この言葉はまた、昼夜「反転」の時も告げているのだ。現実の情景ではあるのだが、幻想的なそれに通じるひとときの夕景の美しさ。最近の東京ではとんと見かけないけれど、私が子供だったころには、東京の住宅地(中野区)あたりでも、彼らはこんな感じで上空を乱舞していた。竹竿を振り回して、追っかけているお兄ちゃんたちも何人かいたような……。何の話からだったか、編集者時代に武者小路実篤氏にこの話をしたところ、「ぼくの子供の頃には丸ノ内で飛んでましたよ」と言われてしまい、つくづく年齢の差を感じさせられた思い出もある。俳誌「地表」(2002年5月・通巻第四一四号)所載。(清水哲男)




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