G黷ェトの海句

July 1572002

 乳母車夏の怒濤によこむきに

                           橋本多佳子

い空、青い海。激しく打ち寄せる波から少し離れたところに、ぽつんと「よこむきに」置かれている「乳母車」。なかでは、赤ん坊がすやすやと眠っているのだろう。大いなる自然の勢いの前では無力に等しい乳母車の位置づけが、「よこむきに」の措辞で明晰に意識されている。乳母車を止めた母親の、怒濤(どとう)に対する半ば本能的な身構えが「よこむきに」に表われている。はじめて読んだときには、この乳母車が高い崖の上に置かれているのかと思った。はらはらさせられたわけだが、実際には違っていてほっとしたことを思い出す。作者の弁によれば、小田原の御幸が浜で作られた句で、つい娘と話に夢中になり、気がつくと、孫を乗せた乳母車がぽつんと浜におきざりになっていた……。この句からそれこそ思い出されるのは、三橋敏雄の「長濤を以て音なし夏の海」だ。「長濤(ちょうとう)」とは聞きなれない言葉だが、遠くから押し寄せてくる大きな波のこと。この圧倒的な波の勢いとまともに向き合えば、掲句ではまだ見えている海の色や乳母車の色、それに波の打ち寄せる音などが一切消えてしまう。まるで無声映画のように、色も音もなく寄せてくる強大な波の姿だけがクローズアップされ、そのうちに見ている作者までもが消えてしまうのである。『紅絲』(1951)所収。(清水哲男)


July 2572003

 西からのドミノ倒しに夏怒濤

                           島本知子

語は「夏(怒)濤」だが、当サイトでは「夏の海」に分類しておく。打ち寄せる大波の高まっては崩れていく様子を、「ドミノ倒しに」と言ったところが新鮮だ。テレビでときどきドミノ倒しの模様を見かけるが、なるほど、あの行列の高まりやうねりは波のようである。同じような言い方で「将棋倒し」があるけれど、波に「将棋倒し」は似つかわしくない。ドミノ倒しが前進していくエネルギーを感じさせるのに対して、こちらは共倒れと言うか、挫折していくイメージの濃い言葉だからだ。「倒」の字が、ドミノではアクティブに、将棋では逆の意味で使われている。だから倒れる現象は同じでも、掲句では「将棋倒し」とは言えないのである。そして、この二つの相反する「倒」のイメージの差は、元はといえば、それぞれのゲームの本来の遊び方の差から来ているのだと愚考する。将棋はもちろんだが、ドミノもまた、並べて倒す遊びのために開発されたものじゃない。両者ともが知的なテーブルゲームであり、それぞれの駒はそれぞれのゲームのなかで、一つ一つに意味や価値が付与されている。決して同質同価値ではない。したがって、それぞれの駒にしてみれば、同質同価値として並べて倒されるなどは不本意だろう。それはともかく、両者のゲームの大きな違いは、ドミノがお互いの駒をつないでいくことに力点があるのに対して、将棋は相手の駒の関係を切断するところに勝負のポイントがある点だ。ドミノはつなげる、将棋は切る。この本質的なゲームとしての差が、同質同価値に並べて倒すときのイメージにも関わってくるという点が、実は回り回って掲句の解釈にも「つながって」くるのである。「俳句」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


May 2852008

 石載せし小家小家や夏の海

                           田中貢太郎

太郎は一九四一年に亡くなっているから、この海辺の光景は大正から昭和にかけてのものか? 夏の海浜とはいえ、まだのどかというか海だけがだだっ広い時代の実景であろう。粗末で小さい家がぽつりぽつりとあるだけの海の村。おそらく気のきいた海水浴場などではないのだろうし、浜茶屋といったものもない。海浜にしがみつくようにして小さな家が点々とあるだけの、ごくありきたりの風景。しかも、その粗末な家の屋根も瓦葺ではなく、杉皮か板を載せて、その上に石がいくつか重しのように載っけられている。いかにも鄙びた光景で、夏の海だけがまぶしく家々に迫っているようだ。「小家小家」が打ち寄せる「小波小波」のようにさえ感じられる。何をかくそう、私の家も昭和二十五年頃まで屋根は瓦葺でもトタンでもなく、大きな杉皮を敷きつめ、その上にごろた石がいくつも載っかった古家だった。よく雨漏りがしていたなあ。貢太郎は高知出身の作家。代表作に『日本怪談全集』があるように、怪談や情話を多く書いた作家だった。そういう作家が詠んだ句として改めて読んでみると、「小家」が何やら尋常のもではないような気もして謎めいてくる。貢太郎の句はそれほど傑出しているとは思われないが、俳人との交際もさかんで多くの句が残されている。「豚を積む名無し小駅の暑さかな」という夏の句もある。「夏の海」といえば、渡邊白泉の「夏の海水兵ひとり紛失す」を忘れるわけにはいかない。『田中貢太郎俳句集』(1926)所収。(八木忠栄)


July 1872009

 踏切を渡れば一気夏の海

                           大輪靖宏

んだか無性に懐かしい光景。水平線と入道雲を見ながら海へ向かう道、できれば少し上り坂がいい。単線の踏切にたどり着くと、目の前に真夏の海がひらける。線路がスタートラインであるかのように海に向かって走った夏。一気、の一語の勢いに、目の前の海から遙かな記憶の海へ、思いが広がってゆく。長く大学で教鞭をとっておられた作者だが、この句集『夏の楽しみ』(2007)のあとがきには「私は昔から夏が好きだったのだ。なにしろ、夏休みであるから働かなくていいのである」。そういえば、第一句集『書斎の四次元ポケット』(2002)に〈トランクをぱたんと閉めて夏終る〉の句があり、いたく共感した覚えがある。楽しい時間は、すぐ終わってしまう。八月になると、あっという間に過ぎる夏休み。今年は暦の関係で、17日に終業式の学校も多かっただろう。子供達も今が一番幸せな時だ。(今井肖子)




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