July 202002
うなぎの日うなぎの文字が町泳ぐ
斉藤すず子
季語は「うなぎの日(土用丑の日)」で夏。ただし、当歳時記では「土用鰻」に分類。この日に鰻(うなぎ)を食べると、夏負けしないと言い伝えられる。今年は今日が土用の入りで、いきなり丑の日と重なった。したがって、この夏の土用の丑の日はもう一度ある。鰻にとっては大迷惑な暦だ。句のように、十日ほど前から、我が町にも鰻専門店はもちろんスーパーなどでも「うなぎの文字」が泳いでいる。漢字で書くと読めない人もいると思うのか、たいていの店が「うなぎ」と平仮名で宣伝している。面白いのは「うなぎ」の文字の形だ。いかにも「うなぎ」らしく見せるために、にょろにょろとした形に書かれている。なかには、実際の姿を組合わせて文字に仕立てた貼紙もあって、句の「うなぎ」表記はなるほどと思わせる。作者は、夏が好きなのだ。もうこんな季節になったのかと、町中を泳ぐ「うなぎ」に上機嫌な作者の姿がほほ笑ましい。今宵の献立は、もちろんこれで決まりである。私は丑の日だからといって鰻を食べようとは思わない性質(たち)だけれど、世の中には、こういうことに律義な人はたくさんいる。名のある店では、今日はさしずめ「鰻食ふための行列ひん曲がる」(尾関乱舌)ってなことになりそう……。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
July 192002
をさなくて昼寝の國の人となる
田中裕明
季語は「昼寝」で夏。「をさなくて」を、どう読むか。素直に「幼いので」と読み、小さな子供が寝つきよく、すうっと「昼寝の國」に入っていった様子を描いた句としてもよいだろう。そんな子供の寝姿に親は微笑を浮かべ、ときおり団扇で風を送ってやっている。よく見かける光景だ。もう一つには、作者自身が「幼くなって」「幼い気持ちになって」昼寝に入ったとも読める。夜の就寝前とは違い、昼寝の前にはあまりごちゃごちゃと物を考えたりはしない。たとえ眠れなくても、たいして気にはかからない。とりあえずの一眠りであり一休みであり、すぐにまた起きるのだからと、気楽に眠ることができる。この精神状態を「をさなくて」と言っているのではあるまいか。子供時代に帰ったような心持ち。この気楽さが、作者をすぐに「昼寝の國」に連れていってくれた。そこには、大人の世界のような込み入った事情もなければ葛藤もない。みんなが幼い人として、素直に邪心なく振る舞っている。大人的現実の面倒なあれこれがないので、極めて快適だ。昼寝好きの私としては、後者を採りたいのだが、みなさんはどうお考えでしょうか。ちょっと無理でしょうかね。ともあれ、明日は休みだ。昼寝ができるぞ。『別冊「俳句」・現代秀句選集』(1998)所載。(清水哲男)
July 182002
ふるさとは盥に沈着く夏のもの
高橋睦郎
夏休みには帰省する人が多いので、めったに帰省することのない私などでも、影響されて「ふるさと」のことを思い出す。作者もまた、実際に帰省しているのではなく、追想しているのではなかろうか。思い出すときには、まず故郷に風景や人物を結びつけるのが大方の人であろうが、作者は違う。「ふるさと」というと、まっさきに「盥(たらい)」に「沈着く(しづく)夏のもの」がイメージされるのだ。夏は、洗濯物が多い。一日に何度か洗濯をするので、いつも盥には洗い物がつけられていた。「沈着」は「物ごとに動ぜず落ち着いていること」の意だけれど、句のように「底に溜まって貼り付いている様子」という意味でも用いられる。むしろ、後者が本意なのだろう。掲句が面白いのは、洗濯物のつけてある盥の情景などは「ふるさと」に固有のものではなく、日本全国どこででも見られたそれであるのに、作者が断固として「ふるさと」に限定して作っているところだ。しかも、この断固たる口調には説得力がある。言われてみれば、故郷の山河よりも、よほど日常的なこちらの情景のほうに「ふるさと」があるような気がしてくる。美しき山河も結構だが、かつての平凡な生活の営みにこそ自分は育てられたのであり、その認識を欠いた望郷の念の表出はいただきかねる。と、そこまでは書かれていないが、私としては「ふるさとは」と大きく振りかぶった作者の姿勢に、そこまで読んでもよいと思われたのだが……。『稽古』(1988)所収。(清水哲男)
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