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July 2472002

 黒眼鏡暗しふるさと田水沸く

                           西村公鳳

語は「田水沸く」で夏。この季節の田圃は強烈な陽射しのために、湯のように熱くなる。化学肥料に頼らなかった時代には、この熱い田圃に入って草を取るのが夏の農家の大仕事だった。一番草から三番草まで、焼けつくような太陽を背に黙々と草を取る大人たちの姿が忘れられない。よくぞ熱中症で倒れなかったものだ。亀村佳代子に「鳥影も煮立つ田水の二番草」があるが、決して大袈裟な物言いではないのである。掲句は、そんな「ふるさと」での暮らしを嫌って、都会に出ていった男の作だと読める。夏休みでの帰省だろうか。一面の田圃が照り返す光りのまぶしさに、都会で常用している「黒眼鏡」をかけた。いきなり「ふるさと」は暗くなり、田水の湧く熱気が暗く立ち上ってくるばかり……。この暗さは、黒眼鏡による物理的な暗さでもあるが、作者の内心から来るそれでもあるだろう。昔からの多くの農村脱出者に共通する、ひさしぶりの故郷を前にしたときの後ろめたくもやりきれない暗い心情が、田水のように心のうちに沸いてくるのだ。言うところの故郷に錦を飾れたのならばまだしも、都会での仕事に何一つ誇りを持つことのできないでいる男の帰郷はかくのごとしと、作者は黒眼鏡をかけたまま憮然としている。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2952006

 草刈女朝日まぶしく人を見る

                           西村公鳳

語は「草刈女(くさかりめ)」で夏、「草刈」に分類。牛馬の飼料や堆肥にするために、草刈は夏の大切な農作業の一つだった。たいていは、早朝に刈ったものだ。朝早くのほうが草が濡れているので、鎌が使いやすいということもあるが、それよりも日が高くなると暑いからという理由のほうが大きいだろう。主に、女性の仕事だった。この句は、そんな草刈の一場面だ。早朝なのでめったに人も通らないから、たまに通りかかると、鎌の手を休めて「誰かしらん」と顔を上げるのである。すると、朝の低い太陽が目に入って「まぶしく」、ちょっと目をしばたかせながら「人」、つまり作者を見たのだった。いかにも農村の朝らしい、清々しくも人間味のある情景ではないか。草刈といえば、坪内稔典が近著の『季語集』(2006・岩波新書)に、こんなことを書いている。「かつて私が勤務していた京都教育大学では、年に二度、教職員と学生が総出でキャンパスの草刈りをした。乏しい予算をカバーするためにはじまった草刈りだが、予算のことなどを忘れ、みんなが半日の草刈りを楽しんだ」。この件を読んで、私は少年期に同じような体験をしたことを思い出した。ただし「総出」でではなく、似たような学校の事情からだったと思うが、それぞれの生徒に草を刈って学校に持参するようにと「宿題」が出た。みんな文句の一つも言わずに持っていったけれど、あれらの草を売った代金はいくらぐらいになって、何のために使われたのだろうか。父兄にはおそらく報告があったのだろうが、いま、不意にそれを知りたくなった。けっこう重労働だっもんなあ……。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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