昨日のつづき。ハイキングの途中で「おじさん、もう歩けないからおんぶして」ですと。




2002ソスN7ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 3072002

 撫し子やものなつかしき昔ぶり

                           正岡子規

語は「撫子(なでしこ)」で秋。秋の七草の一つだが、七月には開花するので、現実的には夏の花でもある。前書に「陸奥の旅に古風の袴はきたる少女を見て」とあって、作句は明治二十六年(1893年)だ。女性用の袴には大別して二種類あり、キュロット状のものとスカート状のものとに分けられる。明治中期の東京の女学生の間では、いまの女子大生が卒業式などに着用するスカート状の袴が一般的になっており、それまでのキュロット・スタイルはすたれていた。スカート型(形状から「行灯袴」と言ったようだ)のほうが、裾さばきを気にしないですむので、断然活動的だったからだろう。ところが旅先の陸奥で見かけた少女は、まだ襠(まち)のある古風な袴をはいていた。そこで「ものなつかしき昔ぶり」と詠んだわけだが、近辺に咲いていた撫子と重ね合わせることで、古風で可憐な少女の姿を彷彿とさせている。このときに、作者にとっての少女は、すなわちほとんど撫子そのものなのであったろう。ハイカラな東京の女学生には見られない、凛とした気品も感じられる。句から吹いてくる、涼しい野の風が心地よい。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


July 2972002

 冷淡な頭の形氷水

                           星野立子

かき氷
い日がつづきます。氷水など如何でしょう。私の好きな「宇治金時」。デザイン的に「冷淡な頭の形」を餡で覆って、冷淡に見えないように工夫された(のかどうかは知らないけれど、そんな気がする)発明品だ。掲句は、正直言ってよい出来ではない。でも、後世のために(笑)書いておくべきことがあるので、取り上げた次第。すなわち、立子は主に東京や鎌倉で暮らした人だったから、氷水(かき氷)というと「冷淡」とイメージしていたのだろう。面白い見方とは思うが、何を言っているのかわからない人も大勢いるはずだ。というのも、東京近辺の氷水はシロップを器に入れてから、その上に氷をかく。したがって、「頭」部は写真の餡を取り払った感じになり、氷の色そのものしか見えないので、なるほどまことに冷淡に写る。が、名古屋以西くらいからは、氷をかいた上にシロップを注ぐ。と、見かけはちっとも冷淡じゃなくなる。九州の一部の地方では、まずシロップを入れて氷をかき、その上に重ねてシロップを注ぐという話を聞いたことがあるが、真偽のほどは確認できていない。いずれにしても、俳句を読むときに厄介なのは、こうした地方的日常性や習慣習俗などをわきまえていないと、とんでもない誤読に陥ってしまうケースがよくあるということだ。当サイトでも、かくいう私が何度も誤読してきたことは、読者諸兄姉が既にご承知の通り。ましてや、時代を隔てた句となると、作者の真意をつかむのが余計に難しくなる。誤読もまた楽し、と思ってはみるものの、あまりのそれは恥ずかしい……。ところで写真の宇治金時は、一つ5,500円也。550円の誤記ではありません。何故なのかは、おわかりですよね。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 2872002

 腰の鎖じゃらじゃら鳴らしラムネ飲む

                           古澤千秋

語は「ラムネ」で夏。日常的な飲み物ではないが、祭や観光地に出かけると、ふっと飲みたくなったりする。私などちっとも美味くないとは思うけれど、遊び心にマッチした飲み物ではあるだろう。しかし、句の様子からすると、主人公は遊び心で飲み、ひとりでに「腰の鎖」が「じゃらじゃら」鳴っているのではない。「鳴らし」とあるからには、故意である。すなわち、演技的に鳴らしているのだ。そもそも腰に鎖をつけること自体が、演技的である。では、なぜ鳴らしているのか。大づかみに、二つ考えられる。一つは、これみよがしに自分の存在を誇示しているケース。もう一つは、自分のなかに倦怠感など鬱屈したものがあって、苛立ちを身体で表現しているケースだ。そのどちらであるかは、句からだけでは第三者にわかりっこない。けれど、飲んでいる人は女性だから、たいがいの男にはコケティッシュに写るにちがいないと思った。なかなか「いいじゃん」と、少なくとも私には写る。何がいいのかと聞かれても困るのだが、「じゃらじゃら」の響きにはどこか崩れた調子、投げやりな感じがあって、そういうところに他愛なく惹かれるのが、おおかたの男というものだろう。ただし、鳴らしすぎては逆効果になることもあるから難しい。過度になると「甘ったれんじゃねえ」みたいな反応も起きてくる。実際に鳴らしている人は、そんなことには無関心かもしれないが、作句者の立場からはそのへんを十分に意識してのことだろうと思われた。「じゃらじゃら」は「チャラチャラ」にも通じ、両方とも好みの表現だが、実際にいざ俳句で使うとなると、想像以上に難しいんだろうなあ……。そんなことを、チャラチャラと思って遊んでいる日曜日です。俳誌「ににん」(2002年夏号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます