August 022002
妻留守の完熟トマト真二つに
山中正己
男子厨房に入るの図。夏の旅行か何かで、妻が家を空けている。トマトは、妻が買って置いておいたものだろう。日数を経て「完熟」してしまっている。柔らかくなっているので、もはやスライスできないのだ。ええいっママよと、乱暴に「真二つに」切って食べることにしたと言うのである。こういうことを句にする人は何歳くらいだろうかと、略歴を見たら、私より一歳年上の同世代人であった。さもありなん……。思わず、ニヤリとしてしまった。日ごろ台所のことを何もしていないので、妻が留守をすると、食事のたびに面倒くさくて仕方がないのだ。句にそくして言えば、ちょっと近所まで新しいトマトを仕入れに行けばよいものを、それからして面倒なのである。冷蔵庫などに食べられるものが残っている間は、不味かろうが何だろうが、それですませてしまう。無精もここに極まれり、というわけだ。もっとも、なかには詩人の天沢退二郎さんのように、毎朝娘さんの弁当を作ってきたという料理好きの人も、同世代には散見されるので、この無精を世代のせいだけにしてはいけないのかもしれないが。そう言えば、原石鼎に「向日葵や腹減れば炊くひとり者」があった。世代やシチュエーションは違っていても、石鼎も作者も、食事とはとりあえず空腹を満たすことと心得ている。この夏にも、完熟トマトを真二つにする男たちは、まだまだ多いだろう。『キリンの眼』(2002)所収。(清水哲男)
July 072004
おとうとをトマト畑に忘れきし
ふけとしこ
季語は「トマト」で夏。フィクションととらえてもよいし、かつて実際にあったこととしてもよい。この句の良さは、実に的確に「おとうと」のありようが把握されているところだ。彼の年代は、学齢前のちょこまかと動き回るころだろう。お姉ちゃんの行くところには、どこにでも就いてきたがる。就いてくるのはよいのだが、なかなか言うことは聞かないし、自分の関心事にすぐに没頭して座り込んだりと、世話が焼ける。そしてときには、ぷいと断りもなく帰ってしまったりして、面倒を見きれないとはこのことだ。今日も今日とて、近くのトマト畑に就いてきた。お姉ちゃんはトマトをもぎに来たわけだが、彼は彼で勝手に畑を動き回っている。いつものことだから勝手にさせておき、さて帰ろうとして見回すと姿が見えない。小さいからトマトのかげにいるのかと少し探してみて、名前を呼んでもみたけれど、どうももう畑にはいないようである。また先に帰ったのだと軽い気持ちで家に戻ってみると、まだ帰ってはいないという。昼間だから、別に真っ青になる事態ではない。「まったく仕様がないなあ」。幼き日の作者であるお姉ちゃんは、ぷんぷんしながら迎えに行かなければならなかった。日盛りのトマト畑に来てみると、小さな麦わら帽子が揺れていた。遠い遠い思い出だ。でも、いまとなってはとても懐かしい。そんな郷愁を呼ぶ佳句である。実際の出来事だとしても、むろん大人になった「おとうと」は覚えていないだろう。よくあることだが、そこがまた作者の郷愁をいっそう色濃いものにするのである。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)
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