歳時記的に言うと、今はもう晩夏。その意味で、毎年のことながら八月の選句は難しい。




2002ソスN8ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0482002

 河童の恋する宿や夏の月

                           与謝蕪村

河童
際に蕪村の前にある情景は、黒々とした沼の上に月がのぼっているだけである。その沼を「河童(かわたろ)」の宿(住み処)と見立てたところから、蕪村独特の世界が広がった。河童が恋しているのは同類の異性とも読めるが、それでは面白くない。彼の思慕する相手が人間と読んでこそ、不思議な気配が漂ってくる。そう読むと、この月も花札に描かれているような幻想的なそれであり、やや赤みを帯びているようにすら思われる。こともあろうに人間を恋してしまった河童の苦しみが、辺り一面に妖気となって立ち上っている……。さて、これから河童はどんな行動に出るのだろうかと、さながら夏の夜の怪談噺のまくらのような句だ。このように読者をすっと手元に引き寄せる巧みな詠みぶりは、蕪村の他の句にもたくさん見られる。ときにあまりにも芝居がかっていて鼻白んでしまうこともあるけれど、掲句ではそのあたりの抑制は効いていると思った。河童の存在については、諸説あってややこしい。いずれにしても、掲句は人々がまだ身近に河童を感じていた時代ならではの作品だ。蕪村のころの読者ならば、ただちに河童の恋の相手が人間だとわかっただろう。絵は小川芋銭の「河童百図」のうち「葭のズヰから(天井のぞく)」。(清水哲男)


August 0382002

 貰ひ来る茶碗の中の金魚かな

                           内藤鳴雪

雪は子規門。「めいせつ」と読ませるが、「ナリユキにまかせる」の意を込めたと言うからとぼけている。二葉亭四迷(クタバッテシメエ)の類なり。さて、掲句は子供のころの思い出を詠んだものだと思う。一読、何の変哲もないようだけれど、金魚を入れた茶碗の手触りまでが伝わってくる句だ。こぼさないように慎重に、そろそろと歩きながら見つめる金魚の姿も鮮やかである。いまだったら、ビニール袋にでも入れるところだけれど、明治期にそんな便利なものはない。他に何か適当な入れ物はなかったのかと想像してみたのだが、思いつかなかった。たとえば手桶などに入れたほうが心配はないが、手桶だと、また返してもらわなければならない。入れ物ごと進呈するには、やはり安茶碗か使い古しの茶碗くらいしかなかったのだろう。しかし、私が子供だったころにも、釣り餌用のミミズを欠け茶碗に入れたりしたけれど、最初に入れるときにはかなりの抵抗感があった。同じような違和感が、作者の気持ちのなかにも流れていたはずである。したがって、句の主役は「金魚」そのものではなくて、あくまでも「茶碗の中の金魚」でなければならない。暑い夏の日の昼下がり、汗だくのこの子は、無事に家まで戻れたろうか。「つづき」が気になる。『鳴雪句集』(1909)所収。(清水哲男)


August 0282002

 妻留守の完熟トマト真二つに

                           山中正己

子厨房に入るの図。夏の旅行か何かで、妻が家を空けている。トマトは、妻が買って置いておいたものだろう。日数を経て「完熟」してしまっている。柔らかくなっているので、もはやスライスできないのだ。ええいっママよと、乱暴に「真二つに」切って食べることにしたと言うのである。こういうことを句にする人は何歳くらいだろうかと、略歴を見たら、私より一歳年上の同世代人であった。さもありなん……。思わず、ニヤリとしてしまった。日ごろ台所のことを何もしていないので、妻が留守をすると、食事のたびに面倒くさくて仕方がないのだ。句にそくして言えば、ちょっと近所まで新しいトマトを仕入れに行けばよいものを、それからして面倒なのである。冷蔵庫などに食べられるものが残っている間は、不味かろうが何だろうが、それですませてしまう。無精もここに極まれり、というわけだ。もっとも、なかには詩人の天沢退二郎さんのように、毎朝娘さんの弁当を作ってきたという料理好きの人も、同世代には散見されるので、この無精を世代のせいだけにしてはいけないのかもしれないが。そう言えば、原石鼎に「向日葵や腹減れば炊くひとり者」があった。世代やシチュエーションは違っていても、石鼎も作者も、食事とはとりあえず空腹を満たすことと心得ている。この夏にも、完熟トマトを真二つにする男たちは、まだまだ多いだろう。『キリンの眼』(2002)所収。(清水哲男)




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