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2002ソスN8ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0582002

 少年に夢ジキタリス咲きのぼる

                           河野南畦

ジキタリス
語は「ジキタリス(ジギタリス)」で夏、花の形から「きつねのてぶくろ(英名・fox glove)」とも。子供の背丈くらいに花序が伸び、グラジオラスと同じように下から上へと順に咲いていく。したがって、掲句の作者は「少年」の上昇志向の「夢」と結びつけたわけだ。そういうことから言えば、類想句も多そうだけれど、そんなことは私にはどうでもよろしい。作者の心持ちは、少年時代をひたすらに懐かしんでいるのであり、ただそれだけであり、そのべたべたの感傷が私のそれにつながるのであり、それでよいのである。なあんて、急に力瘤を入れることもないのだが、句はまさに私の少年時代の庭に咲いていたジキタリスと夢とを鮮明に思い出させてくれたので、いささか興奮させられたのだった。そうなんだよねえ、そうだったなあ……。頭がくらくらするほどの灼熱の日々にあって、さして力強い姿でもなく、かといってひ弱なそれでもなく、淡々と上へ上へと開花してゆくジキタリス。それを見るともなく見ていた少年の日々の一夏の夢のおおかたは、のぼりつめた花の終わりとともに消えていくのだった。人には、このような批評文にも観賞文にも値しない表現でしか言い表せない共感(逆の「反感」も)という心の働きがある。なかで、センチメンタリズムへの共感が、その最たるものだろう。見渡せば、くどくどしく物の言えない俳句のみが、そんなセンチメンタリズムをとても大切にしている。写真は京都植物園HPより部分借用しました。『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)


August 0482002

 河童の恋する宿や夏の月

                           与謝蕪村

河童
際に蕪村の前にある情景は、黒々とした沼の上に月がのぼっているだけである。その沼を「河童(かわたろ)」の宿(住み処)と見立てたところから、蕪村独特の世界が広がった。河童が恋しているのは同類の異性とも読めるが、それでは面白くない。彼の思慕する相手が人間と読んでこそ、不思議な気配が漂ってくる。そう読むと、この月も花札に描かれているような幻想的なそれであり、やや赤みを帯びているようにすら思われる。こともあろうに人間を恋してしまった河童の苦しみが、辺り一面に妖気となって立ち上っている……。さて、これから河童はどんな行動に出るのだろうかと、さながら夏の夜の怪談噺のまくらのような句だ。このように読者をすっと手元に引き寄せる巧みな詠みぶりは、蕪村の他の句にもたくさん見られる。ときにあまりにも芝居がかっていて鼻白んでしまうこともあるけれど、掲句ではそのあたりの抑制は効いていると思った。河童の存在については、諸説あってややこしい。いずれにしても、掲句は人々がまだ身近に河童を感じていた時代ならではの作品だ。蕪村のころの読者ならば、ただちに河童の恋の相手が人間だとわかっただろう。絵は小川芋銭の「河童百図」のうち「葭のズヰから(天井のぞく)」。(清水哲男)


August 0382002

 貰ひ来る茶碗の中の金魚かな

                           内藤鳴雪

雪は子規門。「めいせつ」と読ませるが、「ナリユキにまかせる」の意を込めたと言うからとぼけている。二葉亭四迷(クタバッテシメエ)の類なり。さて、掲句は子供のころの思い出を詠んだものだと思う。一読、何の変哲もないようだけれど、金魚を入れた茶碗の手触りまでが伝わってくる句だ。こぼさないように慎重に、そろそろと歩きながら見つめる金魚の姿も鮮やかである。いまだったら、ビニール袋にでも入れるところだけれど、明治期にそんな便利なものはない。他に何か適当な入れ物はなかったのかと想像してみたのだが、思いつかなかった。たとえば手桶などに入れたほうが心配はないが、手桶だと、また返してもらわなければならない。入れ物ごと進呈するには、やはり安茶碗か使い古しの茶碗くらいしかなかったのだろう。しかし、私が子供だったころにも、釣り餌用のミミズを欠け茶碗に入れたりしたけれど、最初に入れるときにはかなりの抵抗感があった。同じような違和感が、作者の気持ちのなかにも流れていたはずである。したがって、句の主役は「金魚」そのものではなくて、あくまでも「茶碗の中の金魚」でなければならない。暑い夏の日の昼下がり、汗だくのこの子は、無事に家まで戻れたろうか。「つづき」が気になる。『鳴雪句集』(1909)所収。(清水哲男)




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