東京には連日光化学スモッグ注意報が。ビルは冷房、外は悪い空気。でも、人は長生き。




2002ソスN8ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0882002

 秋立つや皆在ることに泪して

                           永田耕衣

衣の句だからといって、構えて読むことはないだろう。そのまま、素直にいただいておきたい。立秋のある八月は、旧盆もあり敗戦の日もある。多くの人が自然に死者を悼み、追慕する月だ。その八月の立秋を今年も迎えて、作者は家族友人知己の誰かれが「皆在ること」に「泪(なみだ)」するほどに感謝している。人生、これ以上の幸福が他にあるだろうか、と……。立秋とはいえ、もとより暦の上のことで、いまごろが暑さのピークだ。古来、俳人たちは立秋を詠むときに、そのかみの和歌の伝統を踏まえて、なんとか涼味を盛り込もうと腐心してきたけれど、掲句にはそういうところがまったく感じられない。無理をせずに、単に暦の上の一区切りとして捉え、むしろこの後にやってくる死者の季節へと気持ちを動かしている。動かしているからこその「泪して」なのだ。このあたりが、やはり耕衣ならではのユニークさであり、ひときわ異彩を放っていると言うべきか。例年のことながら、甲子園の高校野球大会が終わるころまでは、まだまだ暑さきびしい日がつづきます。読者諸兄姉におかれましては、くれぐれもご自愛ご専一にお過ごしくださいますように。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


August 0782002

 百日草がんこにがんこに住んでいる

                           坪内稔典

語は「百日草」で夏。メキシコ原産。その名のとおり、うんざりするほどに花期が長い。栽培も容易で生育も早く、しかもしぶといときているから、江戸期より園芸用として広まったのもうなずける。掲句は花の観賞ではなく、そうした生態のみに着目して「がんこにがんこに」と繰り返した。句の妙は「住んでいる」の切り返しにある。読み下していく途中、読者は最初の「がんこに」のあたりで、なんとなく「咲いている」などと下五を予想してしまう。次の「がんこに」で、ますますそのイメージが強固になる。そこまで仕組んでおいてから、作者はさっと梯子を外すようにして「住んでいる」と切り換えた。ここで一瞬、読者に句の主体を見失わせるわけだ。すなわち「がんこにがんこに」は百日草の生態にもかかっているが、咲かせている家の人の生き方にこそ大きな比重がかけられていたのだった。やられた。やられたのだけれど、しかし、悪い気はしない。そこで、もう一度読んでみると、なるほどと納得がいく。地味ながら頑固一徹に生きている主人公の姿すら、思い浮かべられるようだ。こういうことにかけては、やはり当代一流の作者なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 0682002

 かくらんに町医ひた待つ草家かな

                           杉田久女

語は「かくらん(霍乱)」で夏。暑気中りが原因で起きる病気の総称である。現在では日射病などの熱中症を指す場合が多いが、古くは命にかかわるようなコレラやチフスの重病も含めていたようだ。よく言われる「鬼の霍乱」は、重病のケースだろう。句意は明瞭。家族の誰かが急に具合が悪くなり、あまりに苦しそうなので、町から医者に来てもらうことにした。病人を励ましながら、医者を待つ時間の何と長くて暑く、心細くもいらいらさせられることか。「町」と「草家」の対比で、作者の家が町から遠い場所にあることが知れる。いまならば確実に救急車を呼ぶところだが、昔の村などではみな、こうしてじいっと医者が来るまで「ひた待つ」しかなかった。そのうちに、やっと看護婦を従えた医者が到着する。あれは不思議なもので、医者が到着するだけで家内の雰囲気がぱっと明るくなり、病人も安堵するので、もう半分くらいは治ったような気持ちになるものだ。少年時代の私も、病人としてその雰囲気を体験したことがある。「助かった」と、心底思ったことであった。久女に、もう一句。「かくらんやまぶた凹みて寝入る母」。しかるべき処置をして、医者が帰っていった後の句だろう。やつれてはいるけれど、すっかり安心して、静かに寝入っている母よ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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