「背番号」がまだ届かない。どうせデータになるのなら「00000000000」を希望(笑)。




2002ソスN8ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0982002

 七夕をきのふに荒るる夜空かな

                           吉田汀史

語は「七夕」、昔は陰暦七月七日(または、この日の行事)を指したので秋に分類。仙台七夕など各地の月遅れの祭りは終了したが、昔流に言うと、今年は今月の十五日にあたる。句は、七夕が過ぎたばかりの空が、急に荒れだした様子を描いている。台風でも近づいてきたのだろうか。「きのふ」の七夕の晴夜が嘘のように、黒い雲が走る不気味な空を見上げて、作者が思うことはおそらく「祭りの果て」「宴の後」といったことどもだろう。一抹の寂しさを、荒れはじめた夜空がさらに増幅している。これを単なる自然現象による成り行きと言ってしまえばそれまでだが、こういうときに人は、自然現象にも人ならではの意味を読んできた。「ハレ」と「ケ」の交互出現、良いことは長くつづかぬといった考えなどは、みな自然現象から読み取ったものだ。俳句様式はまた、こうした読み取りを得意としてきたのだった。ところで、三鷹市にある国立天文台では、昨年から「伝統的七夕」の復活を呼びかけている。新暦でもなく月遅れでもなく、旧暦による七夕を祝おうと、今年も十五日には市内でイベントが予定されている。天体の専門家たちによる提唱ゆえ、やがて全国に波及していく可能性は高いだろう。俳誌「航標」(2002年8月号)所載。(清水哲男)


August 0882002

 秋立つや皆在ることに泪して

                           永田耕衣

衣の句だからといって、構えて読むことはないだろう。そのまま、素直にいただいておきたい。立秋のある八月は、旧盆もあり敗戦の日もある。多くの人が自然に死者を悼み、追慕する月だ。その八月の立秋を今年も迎えて、作者は家族友人知己の誰かれが「皆在ること」に「泪(なみだ)」するほどに感謝している。人生、これ以上の幸福が他にあるだろうか、と……。立秋とはいえ、もとより暦の上のことで、いまごろが暑さのピークだ。古来、俳人たちは立秋を詠むときに、そのかみの和歌の伝統を踏まえて、なんとか涼味を盛り込もうと腐心してきたけれど、掲句にはそういうところがまったく感じられない。無理をせずに、単に暦の上の一区切りとして捉え、むしろこの後にやってくる死者の季節へと気持ちを動かしている。動かしているからこその「泪して」なのだ。このあたりが、やはり耕衣ならではのユニークさであり、ひときわ異彩を放っていると言うべきか。例年のことながら、甲子園の高校野球大会が終わるころまでは、まだまだ暑さきびしい日がつづきます。読者諸兄姉におかれましては、くれぐれもご自愛ご専一にお過ごしくださいますように。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


August 0782002

 百日草がんこにがんこに住んでいる

                           坪内稔典

語は「百日草」で夏。メキシコ原産。その名のとおり、うんざりするほどに花期が長い。栽培も容易で生育も早く、しかもしぶといときているから、江戸期より園芸用として広まったのもうなずける。掲句は花の観賞ではなく、そうした生態のみに着目して「がんこにがんこに」と繰り返した。句の妙は「住んでいる」の切り返しにある。読み下していく途中、読者は最初の「がんこに」のあたりで、なんとなく「咲いている」などと下五を予想してしまう。次の「がんこに」で、ますますそのイメージが強固になる。そこまで仕組んでおいてから、作者はさっと梯子を外すようにして「住んでいる」と切り換えた。ここで一瞬、読者に句の主体を見失わせるわけだ。すなわち「がんこにがんこに」は百日草の生態にもかかっているが、咲かせている家の人の生き方にこそ大きな比重がかけられていたのだった。やられた。やられたのだけれど、しかし、悪い気はしない。そこで、もう一度読んでみると、なるほどと納得がいく。地味ながら頑固一徹に生きている主人公の姿すら、思い浮かべられるようだ。こういうことにかけては、やはり当代一流の作者なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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