帰省ラッシュ。交通事故が多発する。お帰りになるみなさま、くれぐれもお気をつけて。




2002ソスN8ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1182002

 追撃兵向日葵の影を越え斃れ

                           鈴木六林男

切手
説の一場面でもなければ、映画のそれでもない。まったき現実である。作者は、地獄の戦場と言われたフィリピンのバターン半島とコレヒドール島要塞戦の生き残りだ。あえて「越え斃(たお)る」と詠嘆せず、「越え斃れ」と記録性を重視しているところに、現場ならではの圧倒的な臨場感がある。極暑の真昼に、優位に敵を追撃していたはずの兵士が、一発の弾丸で、あるいは地雷を踏んで、あっけなく斃れてしまう。現場に参加している者にとってすら、信じられないような光景が白日の下に不意に出現するのだ。変哲もない向日葵の影で、変哲もなく人が死ぬ。これが戦争なのだと、作者はやり場のない憤怒を懸命にこらえて告発している。1942年(昭和十七年)、日本軍はバターンを包囲制圧し、相手方の司令官ダグラス・マッカーサーは「I shall return」のセリフを残して、夜陰に乗じ高速艇で脱出した。戦中の「少国民」のはしくれでしかなかった私も、この季節になると、戦争に思いを馳せる。そして、ただ偶然に生き残っただけの自分を確認する。それだけで、八月には意義がある。写真の切手は、フィリピンで1967年8月に発行されたマッカーサーのシルエットとコレヒドール奪還に上陸するパラシュート部隊。『荒天』所収。(清水哲男)


August 1082002

 秋暑し鏡少なき工学部

                           市川結子

学部に、人を訪ねた。暑い最中を歩いてきたこともあり、会う前にちょっと身繕いを直そうと鏡を探すのだが、なかなか見つからない。冷房の効いていない長い廊下で戸惑っている作者の姿が、目に浮かぶ。言われてみると、なるほど「工学部」とは、そういう場所のような気がする。むろん洗面所にはあるだろうけれど、古ぼけた小さな鏡が、薄暗い照明の下に申し訳程度に貼り付けられている(ような気がする)。いまでもたぶん、工学部には圧倒的に男子学生が多いから、あまり洒落っ気とは縁がないのだ。……と思えてもくるけれど、しかし新しい大学は別にして、では他の学部に鏡がたくさんあるのかというと、似たりよったりではなかろうか。昔から比較的女子学生が多いからといって、とくに文学部に鏡が多いというわけでもないだろう。なかで、なんとなく医学部や薬学部には他学部よりもありそうだが、実際にどうなのかは、意識して見たことがないのでわからない。だからといって、掲句の学部名を仮に法学部や経済学部に入れ替えてみても、どうもしっくりとはこないことに気がつく。やはり「工学部」でなければならない。そこが面白い。鏡の有無から学部の雰囲気を描き出すとは、さすがに女性ならではの発想である。感心した。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 0982002

 七夕をきのふに荒るる夜空かな

                           吉田汀史

語は「七夕」、昔は陰暦七月七日(または、この日の行事)を指したので秋に分類。仙台七夕など各地の月遅れの祭りは終了したが、昔流に言うと、今年は今月の十五日にあたる。句は、七夕が過ぎたばかりの空が、急に荒れだした様子を描いている。台風でも近づいてきたのだろうか。「きのふ」の七夕の晴夜が嘘のように、黒い雲が走る不気味な空を見上げて、作者が思うことはおそらく「祭りの果て」「宴の後」といったことどもだろう。一抹の寂しさを、荒れはじめた夜空がさらに増幅している。これを単なる自然現象による成り行きと言ってしまえばそれまでだが、こういうときに人は、自然現象にも人ならではの意味を読んできた。「ハレ」と「ケ」の交互出現、良いことは長くつづかぬといった考えなどは、みな自然現象から読み取ったものだ。俳句様式はまた、こうした読み取りを得意としてきたのだった。ところで、三鷹市にある国立天文台では、昨年から「伝統的七夕」の復活を呼びかけている。新暦でもなく月遅れでもなく、旧暦による七夕を祝おうと、今年も十五日には市内でイベントが予定されている。天体の専門家たちによる提唱ゆえ、やがて全国に波及していく可能性は高いだろう。俳誌「航標」(2002年8月号)所載。(清水哲男)




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