子供たちの夏休みも残り少なくなってきた。当方もつられて、なんとなく淋しい感じに。




2002ソスN8ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2282002

 鶏頭やおゝと赤子の感嘆詞

                           矢島渚男

語は「鶏頭(けいとう)」で秋。昔、どこにでもあった鶏頭はおおむね貧弱な印象を受けたが、最近では品種改良の結果か、「おゝ」と言いたいほどのなかなかに豪奢なものがある。そんな鶏頭を見て、赤子が「おゝ」と「感嘆詞」を発したというのだ。このときに、作者は思わず赤子の顔を覗き込んだだろう。むろん、赤子は鶏頭の見事さにうなったのではない。内心でうなったのは作者のほうであって、タイミングよくも赤子が声をあげ、作者の内心を代弁するかたちになった。そのあまりのタイミングのよさに「感嘆詞」と聞こえたわけだが、赤子と一緒にいると、ときどきこういうことが起きる。なんだか、こちらの気持ちが見通されているような不思議なことが……。思わず覗き込むと、赤ちゃんはたいてい哲学者のように難しい顔をしている。場合によっては、いささか薄気味悪かったりもする。無邪気な者は、大人のように意味の世界を生きていないからだ。またまた脱線するが、江戸期まで、鶏頭は食用にもされていたらしい。貝原益軒が『菜譜』(1704)に「若葉をゆでて、しょうゆにひたして食べると、ヒユよりうまいが、和(あ)え物としてはヒユに劣る」と述べている。鶏頭の元祖であるヒユ(ナ)はいまでも夏野菜として一部で栽培されており、バター炒めにするとクセがなくて美味だそうだが、食したことなし。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


August 2182002

 ほの赤く掘起しけり薩摩芋

                           村上鬼城

語は「薩摩芋(甘藷)」で秋。収穫期は霜が降りるころ、秋も深まってからだ(もっとも、いまでは晩夏から収穫できる品種もあるようだ)が、句の姿からして、この場合は早掘りだろう。もうそろそろ食べられるかなと試しに掘ってみると、まだ細いけれど「ほの赤」い芋が現れた。可憐な感じさえするその芋の姿に、作者は感じ入っている。収穫期の労働の果ての芋を、こんなふうにしみじみと見つめて、愛情を注ぐわけにはいかない。いわゆる初物ならではの感慨が、じわりと伝わってくる。ところで薩摩芋といえば、敗戦後の食糧危機を救った二大野菜の一つだった。もう一つは、南瓜。二つとも元来が強じんな性質だから、どこにでも植えられ、それなりによく育った。灰汁抜きが大変だったけれど、薩摩芋は蔓まで食べたものだ。しかし、夏は南瓜を主食とし、秋には薩摩芋を食べつづけた反動が、やがてやって来ることになる。私以上の世代で、薩摩芋と南瓜には見向きもしない人が多いのは、そのせいだ。青木昆陽の尽力で薩摩芋が18世紀に普及したときにも、貧しい人々の食料として広がっていった。そして、たとえば里芋は名月の供物とされるなど民俗行事に関わることが多いが、薩摩芋は大普及したにも関わらず、驚くほどに民俗とは関係が薄い。人は、飢えを祭ることはしないからである。ちなみに、俳句で単に「芋」といえば里芋を指す。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 2082002

 夏逝くや油広がる水の上

                           廣瀬直人

の上ではとっくに秋になっているが、体感的な夏もそろそろ終りに近づいてきた。八月も下旬となると、ことに朝夕は涼しく感じられる。作者はそんな季節に、日中なお日の盛んな池か川の辺にたたずんでいる。「水の上」を見やると、何かの「油」が流れ出しており、日光を反射した油の輪が鈍い虹色を放っていた。一読、すぐに「油照」という季語が連想される。風がなく、じっとしていても脂汗(あぶらあせ)が滲んでくるような夏の暑さを言う。このときに掲句は、まさに本物の現象としての油照と言ってよいだろう。見ているだけで、脂汗が浮いてきそうだ。しかし、じっと油の輪が照り返す光りの様子を見ていると、静かに少しずつ輪が広がっていくのがわかる。広がっていくにつれて、虹色の光彩は徐々に薄まっていくのである。そこで作者は、今そのようにして夏が逝きつつあるのだと実感し、この句に至った。さすがの猛暑も、ついに水の上の油のように拡散し、静かに消えていこうとしている……。やがてすっかり油の輪が消えてしまうと、季節は「べとべと」の夏から「さらさら」の秋へと移っていく。油に着目した効果で、このように体感的にも説得力を持つ句だと読んだ。『矢竹』(2002)所収。(清水哲男)




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