August 232002
露草や分銅つまむピンセット
小川軽舟
季 語は「露草(つゆくさ)」で秋。雑草と言ってよいほどに、昔はどこてでも見かけられたが、最近はずいぶんと減ってしまった。花は藍色で、よく見ると、まことに微細にしてはかない味わいがある。その自然の微細と人工的な微細とを重ね合わせた掲句は、一瞬読者の呼吸を止めさせるように働きかけてくる。「分銅(ふんどう)」は、化学薬品などを精密に計量するための錘(おもり)だ。計り方そのものは単純で、上皿てんびんの片方に計りたい物を乗せ、片方に分銅を何個か乗せて釣り合いを取るだけ。父が化学に関わっていたので、写真と同じセットが我が家にもあった。分銅は付属の「ピンセット」で取り扱い、指を触れたり、落として傷をつけることのないよう注意しなければならない。「校正」と言うそうだが、そんな分銅の誤差を専門的に修正する商売までがある。何を計ったのだったか。実際に計らせてもらったときには、小さな分銅をつまんで乗せるまでは、ひとりでに呼吸が止まるという感じだった。息をすると、つまんだピンセットが震えてしまう。それほどに緊張を強いられる作業を専門としてつづけている人ならば、おそらく露草などの自然の微細なはかなさにも、思わず息を詰めるのではなかろうか。句の情景としては、たとえば大学の古ぼけた研究室の窓から、点々と咲く露草の様子が見えている……。『近所』(2001)所収。(清水哲男)
October 092005
つゆ草の節ぶし強し変声期
泉原みつゑ
季語は「つゆ草(露草)」で秋。とはいっても、もう花期は過ぎていると思う。近所に見かけないので、よくわからない。私の子供の頃の記憶では、まだ暑い盛りにまことに可憐な青みがかった花を咲かせたものだ。徳富蘆花は「花ではない、あれは色に出た露の精である」と書いた。そんなか弱げな露の精の茎の「節ぶし」が、実は強いということを、この句に出会うまでは知らなかった。コスモスがそうであるように、ちょっと手折るというわけにはいかないのだろう。花も見かけによらぬものだ。で、作者はそうした露草の特性を「変声期」の少年に重ねてみせている。見事な飛躍だ。中学校あたりを歩いていると、まだ稚ない顔をした少年たちが、おっさんのような声を発していて驚くことがある。そこで作者は、彼らの節ぶしの強さが、まずは外見に似合わぬ声に現われていると詠んだのだ。多くの露草の句が花に着目して、そのはかなさを押し出しているなかで、花と茎全体をとらまえているところがユニークであり、句も成功している。変声期かあ……。むろん私にもあったのだけれど、さほど意識した覚えはない。必然的な生理現象だから、身体がびっくりしなかったせいだろうか。子供のときの声はいささか甲高かったので、変声期があったおかげで助かったとは思っている。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
June 042013
十薬や予報どほりに雨降り来
栗山政子
今年も5月14日の沖縄を皮切りに、例年だと今週あたりで北海道を除く日本列島が粛々と梅雨入りする。サザエさんの漫画では雨のなか肩身狭そうに社員旅行をしている気象庁職員や、あまり当たらないがたまに当たることから「河豚」を「測候所」と呼んでいた時代もあったというが、気象衛星や蓄積データの功績もあり、いまや90%の確率という。十薬とはドクダミをいい、日陰にはびこり、独特のにおいから嫌われることも多いが、花は可憐で十字に開く純白の苞が美しい。掲句では、雨が降ることで十薬の存在をにわかに際立たせている。さらに「予報どほり」であることが、なんともいえない心の屈託を表している。毎朝テレビを付けていれば、また新聞を開けば目にする天気予報である。天気に左右される職業でない限り、通り雨や日照雨(そばえ)を「上空の気圧の谷の接近で午後3時から5時までの間でにわか雨となるところがあるでしょう」などと解明されるのは、どことなく味気ないのだ。いや、的中することが悪いというわけではない。お天気でさえ間違いがないという、そのゆるぎなさに一抹のさみしさを感じるのだ。せめて「今日の午後は狐の嫁入りが見られるでしょう」のように、民間伝承を紛れ込ませてくれたら楽しめるような気がするのだがいかがなものだろう。〈喉元を離るる声や朴の花〉〈露草や口笛ほどの風が吹き〉『声立て直す』(2013)所収。(土肥あき子)
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