August 252002
朝刊は秋田新報鰯雲中岡毅雄旅先での句。目覚めた部屋に配達されていた新聞を見ると、いわゆる中央紙ではなくて、地元の新聞だった。朝一番に旅情をもたらすのは、風景などではなくて、新聞だ。日ごろ読み慣れていない新聞に、ああ遠くまで来たのだという思いが強くわいてくる。さっとカーテンを引いて窓を開けると、思いがけないほどの上天気だった。鰯雲の浮く爽やかな秋晴れ。朝食までの時間、お茶でも飲みながらゆっくりと新聞に目を通す。窓からは、心地よい秋の風……。記事には知らない地名も多く、なじみのない店の広告もたくさん載っているけれど、これがまた旅行の楽しみなのだ。「朝刊は秋田新報」という表現は、たとえば落語の「サンマは目黒(に限る)」の言い方のように、「朝刊は秋田新報に限る」という気持ちに通じている。その土地では、その土地の新聞に限るのである。朝刊一紙の固有名詞で、旅の楽しさを巧みに言い止めた技ありの一句だ。なお、この「秋田新報」は、正式には「秋田魁(さきがけ)新報」と言う。明治期に創刊された伝統のある新聞だ。戦後の短い期間には「秋田新報」の題字で出ていたこともあるが、いまは「魁」の文字が入っている。でも、たぶん地元の人は「アキタサキガケシンポウ」などと長たらしくは呼ばずに、「あきたしんぽう」の愛称で親しんでいると思う。秋田のみなさま、如何でしょうか。『椰子・椰子会アンソロジー2001』所載。(清水哲男) [追記]教えてくださる方があり、秋田では「さきがけ」と略しているそうです。作者が「さきがけ」の愛称を詠み込まなかったのは、自分が旅行者であることを明白にする意図があったのでしょうね。 December 062004 手術同意書に署名し十二月中岡毅雄詠まれた月が「十二月」だから、句になっている。他の「十一月」や「十月」では句にならない。こういうところが、俳句の面白さだ。一年の最後の月なので、普段の月にはない雑事をこなさなければならないのだが、もう一つには一年を無事に締めくくりたいという意識も頭をもたげてくる。家内安全、無病息災……。今年一年を何事もなく、つつがなく全うしたい。全うして年を越したい。もう少しで、それを完遂できる。単なる時間経過の一標識にすぎない十二月ではあるけれど、心的にはそうした意識が、いわば伝統的に植え付けられており、むずむずと動き出す。だから、風邪でもひくと他の月よりも嫌な感じがする。それでなくとも多忙な仕事などに差し支えることもあるが、それよりも無事越年願望に障るからだ。だが年末であろうと、風邪を含めて病気は待ってはくれない。借金取りとは違うのである。ましてや「手術」ともなれば、その緊急性と病院のシステム上の問題もあるので、年明けまでずらすことはできない。病気は仕方がないとしても、選りに選って十二月に手術とは……。みずからの不運を突き放してはみるものの、なおそれがこの月に降り掛かってきたのは口惜しい。作者の心のうちでは、「手術同意書」を書くことによって、今年をスムーズに乗り切れないことへの諦念のようなものが、ようやく定まったかもしれない。逆に、余計に口惜しさが募ったかもしれない。句の表面的な変哲のなさが、かえって読者の心を騒がせる。「俳句研究」(2004年5月号)所載。(清水哲男) May 102005 とととととととととと脈アマリリス中岡毅雄季語は「アマリリス」で夏。ギリシャ語で「アマリリス」は「輝かしい」という意味だそうだが、そのとおりに輝かしく健康的で、そしてとても強い、先日見た鈴木志郎康さんの映画のなかに、三年ぶりだったかに庭に咲いたこの花が出てきたが、そう簡単には生命力を失うことはないらしい。一方、作者は病いを得て、少なくとも健康とは言えない状態のなかにいる。そんな状態が、もうだいぶ長いのだろうか。ときおり脈の様子をみるのが、習い性になっているのだ。今日もまた、いつものように手首に指先を当ててみると、「とととと」「とととと」と、かなり早く打っている。健康体であれば、もう少しゆっくりした調子で「とくとく」「とくとく」となるところなのに……。そしてこのとき、作者の視界にあるのはとても元気なアマリリスだ。病気の身には、人間はもとよりだが、草木や花などでも、健康的なものには敏感になる。老いの身が若さをまぶしく感じるのと同様で、元気に触れると、どうしようもないほどに羨望の念を覚えてしまう。「とととととととととととと」、表現は一見諧謔的ではあるけれど、それだけ余計にアマリリスの元気と溶け合えない作者の気持ちが増幅されて伝わってくる。ところで、この花の花言葉は「おしゃべり」だそうだ。病人には、もっとしっとりとした花でないと、刺激が強すぎる。『椰子アンソロジー・2004』(2005・椰子の会)所載。(清水哲男) December 282007 猟犬は仲居の顔に似てゐたり中岡毅雄仲居の顔を見ていて猟犬に似ていると感じたのではなく、犬の顔を見ていて仲居を思ったのである。ユーモアがあるけれど、そこを狙った句ではない。結果的に面白くなっただけだ。冬季、猟、そのための猟犬というつながりで猟犬は冬の季題に入るのだが、日常で猟が見られない今日、季節感は感じられない。そこにも情趣の狙いはない。猟犬と言えば西洋系の犬が浮かぶ。柴犬も猟に伴う犬だが、どうみても仲居はイメージできない。柴犬のような仲居は宴席に向かない。どうしてもラブラドール種やセッターやポインターなどの優雅な風貌を思い浮かべてしまう。ユーモアも季題中心の情緒にも狙いがないとすると狙いはどこか。それは直感にあると言えよう。作者は波多野爽波創刊主宰の「青」で学んだ。爽波は「多作多捨」、「多読多憶」を旨とし、スポーツで体を鍛えるように俳句も眼前のものを速写して鍛えるべきとして「俳句スポーツ説」を唱えた。計らう間も無く、写して、写しまくっていく中で、浮かび上がってくるものの中に「写生」という方法の真髄があるという主張である。この句も計らう間もない速写の中に作者の直感がいきいきと感じられる。『青新人会作品集』(1987)所載。(今井 聖) July 282009 噴水にもたるるところなかりけり中岡毅雄最近では各地で最高気温を更新するたび、噴水で遊ぶ子どもの映像が恒例になっているようだ。夏空へ広げられた清涼感あふれる噴水は、空気や地面を冷やすことで周囲の気温を下げたり、騒音を軽減する実用的な役割りのほか、水辺に憩うという心理的な安らぎを人々に与えるという。きらきらと水の粒を散らす噴水の柱は、どんなに太くあっても、当然壁のようにもたれることはできないのだが、掲句の断定にはおかしみより不安を感じさせる。しなやかで強靭に見えていた噴水が一転して、放り出された水の心もとなさをあらわにするのだ。人工的に作られた装置によって、身をまかせている水の群れが、健気な曲芸師にも見えてくる。現在、日本を含め世界中で、このひたむきな水を思うままに操って、噴水はさまざまなかたちに演出される。ネットサーフィンしているなかで、贅を尽くしたドバイの踊る噴水(3分強/サウンド有)に息をのんだ。自在に踊る水にもっとも似ているものは、もっとも遠いはずの炎であった。火もまた、もたれることができないもののひとつである。〈水馬いのちみづみづしくあれよ〉〈生きてふるへるはなびらのことごとく〉『啓示』(2009)所収。(土肥あき子)
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