August 272002
ある晴れた日につばくらめかへりけり
安住 敦
季語は「燕帰る」で秋。この季節になると、「つばくらめ(燕)」たちはいつの間にか次々といなくなってしまう。軒端に、空っぽの巣が残される。きっと「ある晴れた日」を選んで、遠い南の島に渡っていったのだろうと、作者は納得している。実際には、どんな天候の日に姿を消したのかはわからない。わからないけれど、それを晴れた日と思いたい作者の心根は、かぎりなく優しい。こういう句に出会うと、ホッとさせられる。この句を読んで思い出した童謡に、野口雨情の「木の葉のお船」がある。「帰る燕は 木の葉のお船ネ 波にゆられりゃ お船はゆれるネ サ ゆれるね」。雨情もまことに心優しく、ずうっと飛んでいかせるのは可哀想だと、そっと船に乗せてやっている。身体が小さいので、木の葉のお船に……。ところで季語の「燕帰る」だが、彼らは日本で生まれるので、本当は「帰る」のではない。と、こういうことにうるさい(失礼、厳密な)俳人は「燕去る」と使ってきた。後者が正しいに決まっているが、でも、「帰る」としたほうが、燕に対しては優しい言い方のような気がする。彼らが渡って行く先には、ちゃんと「家」が待っているのだと想像すれば、心がなごむ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
October 162006
一斉に椅子引く音や秋燕
対中いずみ
季語は「秋燕」、「燕帰る」の項に分類。すぐ近くに小学校があって、よく脇を通る。ときどき感じることだが、同じように運動場に子供が一人もいなくても、休日とそうでない日との学校の感じは全く違う。あれは、どうしてだろうか。休日の構内には誰もいないという知識があるからかとも思うが、どうもそうでもないようだ。むろんよく耳を澄ませば、登校日の学校からはいろいろな音が聞こえてくるはずだが、いつもそんなに意識して通っているわけじゃない。なんとなく通りかかっただけで、休日の学校には生気がないなと思われるのだ。たとえ見えなくても、そこに人がいるとなれば、なんらかの気が立ち上っているような感じを受けるもののようだ。そう仮定すると、そんな学校の気がいちばん高まるのは、やはり終業時だろう。朝からの勉強に抑圧された子供たちの気持ちが、一挙に開放される瞬間だ。揚句の一斉に椅子を引く音には、子供たちの嬉しい気持ちがこもっている。晴天好日の午後。校庭にはまもなく南に渡っていく燕らが飛び交い、もうすぐ勉強が終わった子供らがぞろぞろと出てくる時間。すなわち、学校の気が最も高まり充実するときを迎えたわけで、その限りにおいてはさながら祝祭のときのようである。だが、その気の高まりはわずかな時の間で、すぐに退いてしまうことを作者は知っている。子供らはそれぞれに散っていき、秋の燕はこれっきりもう姿を見せないかもしれない。最も充実した時空間は、常にこのような衰退の兆しを含んでいる。理屈をこねれば、そういう句だ。気の高まりのなか、一抹の寂しさを覚える人情の機微がよくとらえられている。『冬菫』(2006)所収。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|