夢に出てきた人が思い出せない。かつてよく会っていたはずの人なのに。どなたですか。




2002ソスN8ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2782002

 ある晴れた日につばくらめかへりけり

                           安住 敦

語は「燕帰る」で秋。この季節になると、「つばくらめ(燕)」たちはいつの間にか次々といなくなってしまう。軒端に、空っぽの巣が残される。きっと「ある晴れた日」を選んで、遠い南の島に渡っていったのだろうと、作者は納得している。実際には、どんな天候の日に姿を消したのかはわからない。わからないけれど、それを晴れた日と思いたい作者の心根は、かぎりなく優しい。こういう句に出会うと、ホッとさせられる。この句を読んで思い出した童謡に、野口雨情の「木の葉のお船」がある。「帰る燕は 木の葉のお船ネ 波にゆられりゃ お船はゆれるネ サ ゆれるね」。雨情もまことに心優しく、ずうっと飛んでいかせるのは可哀想だと、そっと船に乗せてやっている。身体が小さいので、木の葉のお船に……。ところで季語の「燕帰る」だが、彼らは日本で生まれるので、本当は「帰る」のではない。と、こういうことにうるさい(失礼、厳密な)俳人は「燕去る」と使ってきた。後者が正しいに決まっているが、でも、「帰る」としたほうが、燕に対しては優しい言い方のような気がする。彼らが渡って行く先には、ちゃんと「家」が待っているのだと想像すれば、心がなごむ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2682002

 鄙の宿夕貌汁を食はされし

                           正岡子規

文の「夕貌」の「貌」は、「白」の下に「ハ」を書く異体字が使われている。「夕貌(夕顔)」の花は夏の季語だが、この場合は実なので、秋季としてよいだろう。『仰臥漫録』に、八月二十六日の作とある(当歳時記では、便宜上夏の部に登録)。さして佳句とも思えないが、食いしん坊の子規が「食はされし」と辟易している様子が愉快だ。いかな「鄙(ひな)の宿」といえども、あんなに不味いものを出すことはないのにと、恨んでいる。子規にも、食べたくないものはあったのだ(笑)。私の子供の頃に、味噌汁の具として食べた記憶があるけれど、まったく味も素っ気もなかった。やはり、干瓢にしてからのほうが、よほど美味しい。さて、子規の猛然たる食いっぷりを、掲句を書きつけた日の記録から引用しておこう。この食生活に照らせば、句の恨みのほどがよくわかる。「朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し(砂糖つけ)。昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮。夕 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て、少し生にても)、茄子一皿」。これだけではない。この後に「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」とあり、「二時過牛乳一合ココア交ぜて、煎餅菓子パンなど十個ばかり」とある。そして、まだ足りずに「昼食後梨二つ、夕食後梨一つ」というのだから、食の細い私などは卒倒しそうになる。さすがに「健胃剤」を飲んでいたようだが、とどめの文章。「今日夕方大食のためにや例の下腹痛くてたまらず、暫くにして屁出で筋ゆるむ」です、と。(清水哲男)


August 2582002

 朝刊は秋田新報鰯雲

                           中岡毅雄

先での句。目覚めた部屋に配達されていた新聞を見ると、いわゆる中央紙ではなくて、地元の新聞だった。朝一番に旅情をもたらすのは、風景などではなくて、新聞だ。日ごろ読み慣れていない新聞に、ああ遠くまで来たのだという思いが強くわいてくる。さっとカーテンを引いて窓を開けると、思いがけないほどの上天気だった。鰯雲の浮く爽やかな秋晴れ。朝食までの時間、お茶でも飲みながらゆっくりと新聞に目を通す。窓からは、心地よい秋の風……。記事には知らない地名も多く、なじみのない店の広告もたくさん載っているけれど、これがまた旅行の楽しみなのだ。「朝刊は秋田新報」という表現は、たとえば落語の「サンマは目黒(に限る)」の言い方のように、「朝刊は秋田新報に限る」という気持ちに通じている。その土地では、その土地の新聞に限るのである。朝刊一紙の固有名詞で、旅の楽しさを巧みに言い止めた技ありの一句だ。なお、この「秋田新報」は、正式には「秋田魁(さきがけ)新報」と言う。明治期に創刊された伝統のある新聞だ。戦後の短い期間には「秋田新報」の題字で出ていたこともあるが、いまは「魁」の文字が入っている。でも、たぶん地元の人は「アキタサキガケシンポウ」などと長たらしくは呼ばずに、「あきたしんぽう」の愛称で親しんでいると思う。秋田のみなさま、如何でしょうか。『椰子・椰子会アンソロジー2001』所載。(清水哲男)

[追記]教えてくださる方があり、秋田では「さきがけ」と略しているそうです。作者が「さきがけ」の愛称を詠み込まなかったのは、自分が旅行者であることを明白にする意図があったのでしょうね。




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます