2002N9句

September 0192002

 撫で殺す何をはじめの野分かな

                           三橋敏雄

日は、立春から数えて二百十日目。このころに吹く強い風が「野分(のわき・のわけ)」だ。ちょうど稲の開花期にあたるので、農民はこの日を恐れて厄日としてきた。「二百十日」も「厄日」も季語である。さて、句の「撫で殺す」は造語だろうが、「誉め殺し」などに通じる使い方だ。誉めまくって相手を駄目にするように、撫でまくることで、ついには相手をなぎ倒してしまうのである。強風は、いきなり最初から強く吹くのではない。「何をはじめ(きっかけ)」とするかわからないほどに、ひそやかな風として誕生するわけだ。だから、最初のうちは万物を撫でるように優しく吹くのであるが、それが徐々に風速を増してきて、やがては手に負えないほどの撫で方にまで生長してしまう。まったく「何をはじめ」として、かくのごとくに風が荒れ狂い、野のものを「撫で殺す」にいたったのか。ここで作者はおそらく、野分に重ね合わせてみずからの御しがたい心の状態を思っている。たとえば、殺意だ。はじめは優しく撫でていた気分が、いつの間にか逆上していき、相手を押しのめしたくなるそれに変わってしまうことがある。この不可解さは、すなわち「何をはじめの狂気かな」とでも言うしかない性質のものだろう。『眞神』(1973)所収。(清水哲男)


September 0292002

 廃船のたまり場に鳴く夏鴉

                           福田甲子雄

廃船
書に「石狩川河口 三句」とある。つづく二句は「船名をとどむ廃船夕焼ける」と「友の髭北の秋風ただよはせ」だ。三句目からわかるように、作者が訪れたのは暦の上では夏であったが、北の地は既に初秋のたたずまいを見せていた。石狩川の河口には三十年間ほどにわたり、十数隻の木造船が放置されていて、一種の名所のようになっていたという(1998年に、危険との理由で撤去された)。この「たまり場」の廃船を素材にした写真や絵画も、多く残されている。かつて荒海をも乗り切ってきた船たちが、うち捨てられている光景。それだけでも十分に侘しいのに、鴉どもが夕暮れに寄ってきては、我関せず焉とばかりに鳴き立てている。しかし、その無神経とも思える鳴き声が、よけいに作者の侘しさの念を増幅するのだった。そのうちにきっと、野放図な鴉の声もまた、廃船の運命を悼んでいるようにも聞こえてきたはずである。この句の成功の要因を求めるならば、鳴いているのが「夏鴉」だからだ。「秋鴉」としても現場での実感に違和感はなかったろうが、いわゆる付き過ぎになって、かえって句柄がやせ細ってしまう。したがって、たとえばここしばらくのように、実感的に秋とも言え夏とも言える季節の変わり目で、写生句を詠むときの俳人は「苦労するのだろうな」などと、そんなことも思わせられた掲句である。写真は北海道テレビのHPより、廃船を描く最後の写生会(1998年6月)。『白根山麓』(1988・邑書林句集文庫版)所収。(清水哲男)


September 0392002

 虫の夜の星空に浮く地球かな

                           大峯あきら

語は「虫」で秋。秋に鳴く虫一般のことだが、俳句で単に「虫」といえば、草むらで鳴く虫たちだけを指す。鳴くのは、雄のみ。さて、天には星、地には草叢にすだく虫。作者は、まことに爽やかかつ情緒纏綿たる秋の夜のひとときを楽しんでいる。星空を見上げているうちに、自分がいまこうして存在している「地球」もまた、あれらの星のように「空」に浮かんでいるのだと思った。すると、作者の視座に不思議なずれが生じてきた。地球をはるかに離れて、どこか宇宙の一点から星空全体を眺めているような……。この視座からすると、たしかに地球が遠くで青く光る姿も見えてくるのである。となれば、虫たちは地球上の草叢ではなくて、いわば宇宙という草叢全体ですだいている理屈になる。つまり、作者には庭先の真っ暗な草叢が、にわかに宇宙的な広がりをもって感じられたということだろう。一種の錯覚の面白さだが、はじめて読んだときには、ふわりと浮遊していく自分を感じて、軽い目まいを覚えた。それは、地球が空に浮いているという道理からではなく、草叢がいきなり宇宙空間全体に拡大されたことから来たようだった。『夏の峠』(1997)所収。(清水哲男)


September 0492002

 夜業の窓にしやくな銀座の空明り

                           鶴 彬

和十年(1935年)の作品。句意は明瞭で、いまどきの「残業」にも通じる内容である。最近では、また残業が増えてきたという。リストラのために、正社員の仕事量が増えてきたからだ。ただし、当時の町工場などでは労働環境が違う。その劣悪さについては、後に引用する句を参照していただきたい。季語は「夜業(夜なべ)」で、秋である。といっても、作者は川柳として作っているので、季節の意識は希薄だったかもしれない。俳句で「夜なべ」を秋としてきたのは、夜長感覚とそれに伴う寂寥感を重んじたためだろう。仄暗い秋灯の侘しさもプラスされる。川柳作家・鶴彬(つる・あきら)の句は、数年前に田辺聖子の近代川柳界を扱った小説『道頓堀の雨に別れて以来なり』を読んだとき以来、もっと知りたいと思ってきた。時の権力に苛烈に抗して「手と足をもいだ丸太にしてかへし」と、川柳得意の笑いを突き詰めた表現の壮絶さに打たれたからである。しかし、何度かあちこちの図書館で調べてみても見つからなかった。理由は、このほどやっと私が読むことのできた本でわかった。この句を発表してから二年後に、鶴は特高警察に逮捕され、翌年の九月、野方警察署留置場で赤痢に罹って、収監のまま豊多摩病院で非業の死を遂げている。二十九歳。べつに大新聞に書いていたわけではなく、一般的には無名の川柳作家が、かくのごとくに国家権力に蹂躙された事実を知った以上は、忘れるわけにはいかない。こうした作家を現代に掘り起こしてくれた方々に、深く謝意を表します。そして、もう二句。すなわち、劣悪な職場環境を詠んだ句に「吸ひに行く――姉を殺した綿くずを」「もう綿くずを吸へない肺でクビになる」がある。小沢信男編『松倉米吉 富田木歩 鶴彬』(2002・イー・ディー・アイ)所載。(清水哲男)


September 0592002

 夢殿にちょっとすんでた竃馬

                           南村健治

語は「竃馬(かまどうま)」で秋。「いとど」とも言い、芭蕉『おくのほそ道』に「海士の屋は小海老にまじるいとどかな」と出てくる。湿ったかまどの周辺や土間などでよく見かけたものだが、いまではどこに棲息しているのだろうか。コオロギに似ているが、翅がなく鳴かない。とにかく、地味で淋しそうな虫だ。句は、そんな竃馬が、なんと、かの有名な法隆寺の「夢殿」に「ちょっとすんでた」ことがあるという。何故わかったかといえば、この虫が作者に語って聞かせたからである(笑)。そんじょそこらの竃馬とは虫の格が違うんだぞと、一寸の虫にも五分のプライドか……。まさか嘘ではなかろうが、得意げに髭を振って話している姿を想像すると、それこそ「ちょっと」可笑しい。このときに、むろん作者は他ならぬ人間界を意識しているわけで、そう言えば、こうした俗物感覚で物を言う人がいることに思い当たる。当人は有名な外国の都市に「ちょっと住んでた」だとか、著名人を「ちょっと知ってる」だとかと、しきりに「ちょっと」とさりげなさを強調するのだけれど、この「ちょっと」が曲者だ。謙虚に見せて、実は押し付けになるケースが多い。そうした押し付けに気がつかない人の自慢話を聞いていると、そのうちに「ちょっと」可哀想な気持ちにもなってくる。『大頭』(2002)所収。(清水哲男)


September 0692002

 道化師の鼻外しをる夜食かな

                           延広禎一

語は「夜食」で秋。秋は農村多忙の季節ゆえ、元来は農民の夜の軽食を指した。掲句は、芸人ならではの夜食だ。「鼻外しをる」とあるから、まだショーは終わっていない。次の出番までに、とりあえず腹を満たしておこうと、楽屋でこれから仕出し弁当でもつつくところなのだろう。旅から旅への芸人で、それも「道化師」となれば、傍目からの侘しさも募る。味わうというのではなく、ただ空腹を満たすための食事は、昔から芸人の宿命みたいなもので、現代の華やかなテレビタレントでも同じことだ。放送局の片隅で何かを食べている彼らを見ていると、つくづく芸人なんぞになるもんじゃないなと思う。それがむしろ楽しく思えるのは、駆け出しの頃だけだろう。昔、テレビの仕事で、プロレスの初代「タイガーマスク」を取材したことがある。宇都宮の体育館だったと思う。試合前の楽屋に行くと、稀代の人気者が、こちらに背中を向けて飯を食っているところだった。むろん、そんな場面は撮影禁止だ。カメラマンが外に出た気配を確認してから、やおら振り向いた彼の顔にはマスクがなかった。当たり前といえば当たり前だが、いきなりの素顔にはびっくりした。と同時に、誰だって飯くらいは素顔で食いたいのだなと納得もした。手にしていたのは仕出し弁当ではなく、どう見ても駅弁だったね、あれは。体力を使うプロレスラーの食事にしてはお粗末に思えたので、いまでも覚えているという次第。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 0792002

 恋遠しきりりと白き帯とんぼ

                           的野 雄

語は「とんぼ(蜻蛉)」で秋だが、実際の「とんぼ」ではなくて、絽などの帯に織り込まれたそれだと思う。白地に、かすかにとんぼの姿が浮き出ていて、どちらかといえば夏用の帯だろう。つまり、秋の涼しさを先取りした図柄ということに。もっとも、これは二十代の終りの頃、生活のために手伝った『和装小辞典』(池田書店)のためのニワカ勉強で得た知識からの類推なので、アテにはなりません。句の眼目は、そんな詮索にあるのではなく、「きりりと」の措辞にある。遠い恋、淡い恋。句集で作者の年代を見ると、私より七歳年長だ。そうすると、敗戦時には中学生か。となれば、戦後の和装どころではない時代に「とんぼ」の帯を見たのではなく、もう少し低年齢での思い出ということにならざるを得ない。「恋」というよりも、甘美なあこがれに近い心情の世界だ。近所の友だちのお姉さんか誰か、いずれにしても対象は身近な年上のひとだ。とんぼの帯を「きりりと」締めていた様子が忘れられなくて、いつもこの季節になると、切なくも甘酸っぱく思い返されるのである。「きりりと」とは、近寄りがたい雰囲気をあらわしていながら、だからこそ逆に近寄りたいという気持ちを誘発させられる。思春期のトバ口にあった頃の男の子の想いは、掲句のようにいつまでも残ってしまう。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


September 0892002

 父も子も音痴や野面夕焼けて

                           伊丹三樹彦

に「夕焼」といえば夏だが、句のそれは「秋夕焼」でも似合う。夏ならば、親子していつまでも歌っている光景。秋ならば、ちょっと歌ってみて、どちらからともなく止めてしまう光景。いずれも、捨てがたい。思いがけないところで、血筋に気がつく面白さ。こういうことは、誰にでも起きる。ところで、いったい「音痴」とは何だろうか。私は音痴と言われたことはないけれど、しかし、自分が微妙に音痴であることを知っている。頭ではわかっていても、決まって思うように発声できない音がある。小学館の電子百科辞典で、引いてみた。「音楽が不得意であること、またそのような人に対して軽蔑や謙遜の意味を込めていう俗語。大正初期の一高生による造語か。(中略)病理学的には感覚性音痴と運動性音痴が区別される。前者は音高、拍子、リズム、音量などを聞き分ける能力がない、または不完全なものをさし、後者はそのような感覚はあっても、いざ歌うとなると正しく表出できないものをさす。これらは大脳の先天的音楽機能不全であるとする説もあるが、環境の変化や訓練によって変わるし、しかも幼少時期にとくに変わりやすいので、むしろ後天的な要因のほうが大きいと思われる。とすれば、ある社会のなかで音痴といわれる人も別な社会に行けば音痴でないこともありうることになる。とくに軽症の場合は心因性のことが多いので、劣等感を取り除くべく練習を重ねれば文化に応じた音楽性が身につく。身体発育の段階によっては、声域異常や嗄声(させい・しゃがれ声)などの音声障害のため音痴と誤解されることもあるが、楽器の操作は正しくできることもある。音楽能力が以前にはあったのに疾病により音痴となった場合のことを失音楽症という。〈山口修〉」。この解説に従えば、私の場合は「運動性音痴」に当てはまる。これはしかし、どう考えても後天的ではなさそうだ。『人中』所収。(清水哲男)


September 0992002

 玉錦塩を掴んで雪のように

                           野田別天樓

撲(秋の季語)の句。実際に本場所を見たのは、後にも先にも一度しかない。いまの貴乃花の父親が、大関を張っていたころだ。偶然にも天覧試合だったので、昭和天皇を見たのも、あのときだけだった。相撲の句というと、たいていが勝負に関わるものや年取った角力取りの哀感を詠んだものが多いなかで、このように絶好調の力士の姿を誉めた句は少ない。玉錦は昭和初期の横綱だから、私にはその勇姿を知る由もないけれど、きっと句のように「雪のように」美しい姿だったにちがいない。男も惚れる美丈夫だ。土俵に上がり塩を掴んだ姿も、勝敗を越えた角力見物の楽しさであることは、たった一度の観戦でもよくわかった。あの微妙な肌の色、取り組んだ後に背に昇ってくる血の色……。こういうところは、残念ながらテレビでは見えない。野球でもサッカーでも、現場でしか見られないものは、数多くある。さて、作者の師匠である松瀬青々には「角力取若く破竹の名を成せり」がある。昨日の八場所ぶりの貴乃花は、まさにこの句のように力量名声をほしいままにしてきた力士であるが、みなさまはどうご覧になっただろうか。必死の気迫は感じられた。が、素人考えながら、新小結にすぐに上手を切られるなど、前途は楽観できない内容だなと思えた。(清水哲男)


September 1092002

 秋蝶の一頭砂場に降りたちぬ

                           麻里伊

の蝶は姿も弱々しく、飛び方にも力がない。「ますぐには飛びゆきがたし秋の蝶」(阿波野青畝)。そんな蝶が「砂場」に降りたった。目を引くのは「一頭」という数詞だ。慣習的に、蝶は一頭二頭と数えるが、この場合には、なんと読むのか(呉音ではズ、唐音ではチョウ・チュウ[広辞苑第五版])。理詰めに俳句としての音数からいくと「いちず」だろうが、普通に牛馬などを数えるときの「いっとう」も捨てがたい。というのも、枝葉や花にとまった蝶とは違い、砂場に降りた蝶の姿はひどく生々しいからだ。蝶にしてみれば、砂漠にでも降りてしまった気分だろう。もはや軽やかに飛ぶ力が失せ、かろうじて墜落に抗して、ともかくも砂場に着地した。人間ならば激しく肩で息をする状態だ。このときに目立つのは、蝶の羽ではなくて、消えゆく命そのものである。消えゆく命は蝶の「頭」に凝縮されて見えるのであり、ここに「一匹」などではなく「いちず」の必然性があるわけだが、しかし全体の生々しさには「いっとう」と呼んで差し支えないほどの存在感がある。作者が「いちず」とも「いっとう」ともルビを振らなかったのは、その両方の意を込めたかったからではなかろうか。やがて死ぬけしきを詠むというときに、この「一頭」は動かせない。『水は水へ』(2002)所収。(清水哲男)


September 1192002

 敗荷のみな言ひ止しといふかたち

                           峯尾文世

語は「敗荷(やれはす・やれはちす・はいか・はいが)」で秋。台風などで、吹き破られた蓮の葉のこと。何か言いかけて途中で止めてしまうのが「言ひ止し(いいさし)」だが、破れた蓮の葉のかたちに、作者はそれらの葉の無念を見ている。そこが新鮮だ。句の葉の無念は、しかし、必ずしも第一に台風などのせいではないところを味わうべきだと思った。元来「言ひ止し」とは、自分の意志で物言いを止めてしまうことだから、まさか自分が台風などのせいで急に物が言えなくなるとは思ってもいなかったのに、思いがけない災難で、言いたいこともついに言えないままになってしまったのである。平たく言えば、我が身の物言わぬままの破滅は、楽天的に明日を信じたせいとも言えるのだ。そのことの無念だ。そして、そこここの蓮の葉が、みんなそうなってしまっているという無惨。だったら、元気なうちに言うべきことをちゃんと言っておけばよかったのに……。なんて発想が出るのは常に第三者からなのであり、第三者に同情されたところで、無念の「かたち」が修復されるわけじゃない。私たちは、いつだって「言ひ止し」の連続で生きているような存在だろう。そして、誰だっていつかは敗荷の身を生きて、死んでいくことになるのだろう。人の世とは、なんと理不尽なものか。と、作者は目の前の敗荷を見つめながら、いま、そう思いはじめたところである。『微香性』(2002)所収。(清水哲男)


September 1292002

 新米のひかり纏いて炊きあがる

                           青木規子

 籾摺り
米が出回る季節になりました。配給制の時代とは違い、最近の気の利いたお米屋さんは、産地まで作柄を見に出かけて買い付けてきます。それも、刈り時の二、三日前までねばるのですから、まるで相場師ですね。スーパーの米は安いけれど、品質ではやはりそうした米屋の米に信頼が置けます。ところで、写真のこの道具をご存知でしょうか。私の子供の頃には、見たくもない物のひとつでしたが、いまや全国どこにもなくなってしまいました。精米するための道具です。稲を刈り、稲扱きで脱穀して籾にしてから、筵にひろげて天日に干して、それから精米をこの道具で行ったものでした。稲刈りや脱穀は大人の仕事でしたが、精米だけは力の無い子供にもできたので、ずいぶんとやらされましたね。手前の臼に籾を入れ、シーソー状の向こう側に人が立って、ギッタンバッコンと踏む仕掛けです。力はいらないかわりに、根気を要求されました。臼に入れる籾の量にもよりますが、写真から推察すると、これだと2000回以上は踏まなければならなかったでしょうね。一回踏むのに3秒としても、6000秒ですか。二時間近くは、ゆうにかかる計算になります。まことに単調退屈な仕事でしたが、これをやらないと飯にありつけないのが新米の季節……。というのも、我が家のような零細農家では、稲刈りの前には米の貯えが底をついていたものですから、とにかく白い飯食べたさに必死に踏んだことを覚えています。そして、こうして精米した米を炊くのも私の役目で、炊き上がったときの様子は、まさに掲句の通り。涙が出るほどに興奮しましたし、しかもその新米の美味いことといったら……。過ぎ去ってみれば、懐しくも楽しい思い出です。写真は「京の田舎民具館」で撮影し掲載しているここからトリミング縮小して借用しました。『新版・俳句歳時記』(2001・有山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1392002

 人間に寝る楽しみの夜長かな

                           青木月斗

の「夜長」。ようやく暑い夜の寝苦しさから解放されて、一晩通して眠れるようになった。この時期にこの句を読むと、はらわたに沁み入るようなリアリティを感じる。とくに会社勤めの人たちにとっては、そうだろう。私もサラリーマン時代には、寝る前にひとりでに「寝れば天国」とつぶやいていたものだった。若かったから、むろん寝ない楽しみもあったけれど、くたくたに疲れて眠る前の至福感もまた、格別だった。江戸期の狂歌に「世の中に寝るほど樂はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」があり、これは昼間も寝ている怠け者の言い草を装っていながら、眠らないで頑張る人たちへの痛烈な風刺になっている。なぜ、そんなに頑張るのか。わずかな蓄財のために、親方に鼻面をひきまわされながらも頑張って、それでお前の一生はいいのかと辛辣だ。当時の私はこの狂歌を机の前に貼り付けて、何もかもぶん投げてしまいたいと切に願っていたが、ついにそういうことにできずに、今日まで来てしまった。大正から昭和初期にかけて活躍した作者は、大阪船場の商人で、貧乏人ではないし、諸般において給料取りの感覚とは隔たっていたろうが、秋の「夜長」を寝る楽しみとしたところを見ると、やはり「浮世の馬鹿」の一員として働いていたにちがいない。掲句は、豪放磊落の俳人といわれた月斗が、ふうっと深く吐いた吐息のような句だったと思える。『月斗翁句抄』(1950)所収。(清水哲男)


September 1492002

 邯鄲や酒断ちて知る夜の襞

                           正木浩一

語は、ル・ル・ルと美しい声で鳴く秋の虫「邯鄲(かんたん)」。「邯鄲の夢」の故事から命名された。この鳴き声を人生のはかなさに引きつけた感性は、優しくも鋭い。「酒断ちて」は、大病ゆえの断酒と句集から知れる。幸か不幸か、私には断酒に追い込まれた体験はないのだが、句はよくわかる(ような気がする)。おのれの酩酊状態の逆を考えれば、さもありなんと想像できる(ような気がする)からだ。酔いは、人を感性の狭窄状態に連れてゆく。感覚的視野が狭くなり、その結果として、素面のときに見えていたり感じられていたはずのことの多くが抜け落ちてくる。よく言えば雑念が吹っ飛ぶのだし、悪く言えば状況に鈍感になる。このときに、些事に拘泥したり誇大妄想風になったりと、人により現れ方は違うけれど、根っこは同じだ。いずれにしても、日常的に自分の存在を規定している諸条件から、幻想的に抜け出てしまうのである。これが、私なりの酒の力の定義だが、この力が働かない状況に急に置かれると、掲句のように「夜の襞(諸相)」が実によく感じられるだろう。それも、日ごろ酒を飲まない人には感じられない「襞」のありようまでが……。こんなにも夜は深くて多層的で、充実していてデリケートであることを、はじめて覚えた驚き。酒を断たれた哀しみを邯鄲の鳴き声に託しつつも、作者はこの新鮮な驚きに少しく酔っている。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)


September 1592002

 反逆す敬老の日を出歩きて

                           大川俊江

駄な「反逆」かもしれない。でも、私は老人扱いされるのはイヤだ。ましてや、おしきせの祝う会などには出たくない。普段通りに、いやそれ以上に、外出してあちこち歩き回ってやるのだ。「敬老」だなんて、冗談じゃないよ。と、意地の一句である。このような句が、私にはようやく実感としてわかる年齢になってきた。まったくもつて、腹立たしい。以下、最近の「日本経済新聞」(2002年9月7日付)に書いた拙文を、多少削って再録しておきます。……それにしても「敬老の日」とは、まことに奇怪にして押しつけがましいネーミングだ。というのも、「敬老」の主体は老人以外の人々のことだから、この日の主体は、実は老人ではないのである。つまり、国が若い人々に老人を敬えと教え、押しつける日ということだ。以前は「としよりの日」といった。それが「老人の日」に変わり、昭和四十一年から「敬老の日」に変更された。かつては、ちゃんと老人主体の祝日だったわけだ。これならば、老人が妙な違和感を覚えないでもすむだろう。できることなら国民投票でもやって、老人主体の日に戻してもらいたい。だいたいが、国家の音頭で「尊敬」などと言いはじめて、ロクなことがあったためしはないのである。それが証拠に、現今の老人に対する国の政策は、とても敬老精神から発しているとは思えない。年金問題、しかり。医療費問題、しかりではないか。事は、大きな問題だけに限らない。景気のよい時には、この日に地方自治体がお祝い金を出していたが、いまでは式典や慰安会だけになってしまった。そのうちに、経費節減でこれらもなくなるかもしれない。金の切れ目が縁の切れ目というわけか。敬老精神を持つべきは、いまや第一に為政者の側なのである。……。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


September 1692002

 帰る家ありて摘みけり草の花

                           小島 健

語は「草の花」で秋。野草には、秋に花の咲くものが多い。ちなみに、俳句で「木の花」といえば春の季語だ。名も知れぬ花を摘みながら、こういうことをするのも「帰る家」があるからだと、ふっと思った。それだけのことでしかないのだが、考えてみれば、私たちの生活のほとんどはそれだけのことで占められている。そうした些事に、作者のように心を動かす人もいるし、くだらないことだと動かさない人もいる。どちらが幸福だろうか。最近読んだフランスの作家フィリップ・ドルレムの『しあわせの森をさがして』(廣済堂出版・2002)は、ちょうどそのことを主題にした本だった。「幸福であるのは当たり前のことではない。僕にはただ、多くのチャンスがあり、それが通り過ぎる間にそれを名づけたいという願いがある。芝居では、人々は桜の園が競売に付されるのを待ち望み、雪のような花々を懐かしむ言葉に出会うことになる。僕としては、それが売り物になる前に自分の桜の園を歌いたいものだ。僕は、人生からちょっと引っ込んだところ、まさに時間の流れからはずれて立ち止まっている」(山本光久訳)。このドルレムの言い方に従えば、掲句は「自分の桜の園」を歌っている。ささやかな「幸福」を、とても大切にしている。そして俳句は、いつだって「自分の桜の園」を大事にしてきた文芸だ。だからこそ、声高な「戦争」や「革命」や「希望」や「絶望」の幾星霜を生きのびてこられたのだと思う。『木の実』(2002)所収。(清水哲男)


September 1792002

 点睛の瞳を穿つ栗の虫

                           照井 翠

事に充実した「栗」を、人間の「瞳」に見立てた句。なるほど、熟れてきて毬(いが)からのぞいている様子は、確かにつぶらな瞳に似ている。それも「点睛」というほどなのだから、ほれぼれするような美しい栗だ。が、そのつややかな瞳を、情け容赦もなしに「虫」が「穿つ(うがつ)」てしまっていた。栗にしてみれば、決して画竜点睛を欠いたのではなく、点睛は完璧に成ったのにもかかわらず、思わぬことから全身がむしばまれてしまったのだ。この無念さは、九仞の功を一簣に虧くどころではないだろう。他方、虫は虫でおのれの本能に従ったまでのこと。おのれの日常生活を、自然にまっとうしただけのことなのである。作者は栗に身贔屓しながらも、一方的に虫を責められない事情をあわせて書いている。無惨だとか理不尽だとかとは言わずに、すっと「栗の虫」と止めたところに、それを感じる。あまり勝手な拡大解釈は慎むべきかもしれないが、私に掲句は、人間界のありようの比喩とも受け取れた。お互いにおのれの本分を忠実にまっとうすることで、どちらかがもろくも壊れてしまう……。たとえば、現今のリストラ事情には、資本という名の「栗の虫」が出てくる。『水恋宮』(2001)所収。(清水哲男)


September 1892002

 秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな

                           中村汀女

 籾摺り
は1935年(昭和十年)、東京大森での作。昔の台所は田舎ではもちろん、瓦斯(ガス)が来ているような都会のモダンな家でも、総じて北側など暗い場所にあった。ましてや、外は秋の雨だから、陰気な雰囲気である。「秋雨の瓦斯」とは、コックをひねると出てくる瓦斯の、普段よりもいっそう暗く湿ったような感じを言っているのだろう。タイミングを計って燐寸(マッチ)を擦ると、炎が瓦斯に燃え移るというよりも、句のように「瓦斯が飛びつ」いてくるというのが実感だ。着火したら、手早く燐寸を遠ざけねばならない。慣れているはずの主婦といえどもが、緊張する一瞬である。当時は恵まれた環境にあった主婦のビビッドな感覚を伝えた掲句も、もはや郷愁を呼ぶ台所俳句の一つになってしまった。自動点火のガス器具しか知らない世代には、よくわからないかもしれない。瓦斯といえば、最近読んだ宇多喜代子『わたしの歳事ノート』(富士見書房・2002)に、明治期(三十七年)の句が引用されていた。「瓦斯竃料理書もある厨哉」。新聞の懸賞に入選した俳句だそうだが、手放しの自慢ぶりが、いまとなっては可笑しくも哀しい。時代は変わった。台所も……。画像はTOKYO GASのHPより。句は『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)などに所載。(清水哲男)


September 1992002

 カジノ裏とびきりの星月夜かな

                           細谷喨々

語は「星月夜」で秋。古書に「闇に星の多く明るきをいふなり。月のことにはあらず」とあって、まるで月夜のように星々が輝いている夜のことだ。美しい命名である。「カジノ」とあるからには外国吟と知れるが、一読ラスベガスかなと思ったら、ウィーンでの作句だった。ま、どこの国のカジノでも構わないけれど、面白いと思ったのは、きらびやかなカジノのある繁華な通りを離れて、薄暗い「裏」手の道にまわりこんだりすると、ひとりでに夜空を仰いでしまうような性癖が、総じて我々日本人にはあると思い当たるところだった。すなわち、陰陽の陰を好むのである……。とりわけて詩歌の人にはそういう趣味嗜好性癖があり、したがって、カジノの華麗さを正面から捉えたような作品には、なかなかお目にかかれない。すなわち、いつだって「裏」から発するのではないのかしらん、我々の大半の美意識の表現は……。だから、ウィーンのカジノの裏手を知らない私にも、この「とびきりの星月夜」の美しさはよくわかる。目に見えるような気がするのだ。句の言うとおりに、きっと素晴らしい星空だったに違いない。むろん句としてはこれでよいのだし、そして作者と直接的には無関係なれど、我々の詩歌の裏手からの美意識について、ちょっと考えさせられるきっかけを得た一句となった。私も、陰や影から発する美が好きだ。でも、何故なのだろうか、と。大串章著『自由に楽しむ俳句』(1999・日東書院)の例句より引用。(清水哲男)


September 2092002

 わが葉月世を疎めども故はなし

                           日野草城

語は「葉月」で秋、陰暦八月の異称。「朝ぼらけ鳴く音寒けけき初雁の葉月の空に秋風ぞ吹く」(眞昭法師)。この歌を読んで、わっ、めちゃめちゃな季重なりと、瞬間感じたのは私だけでしょうか。完璧な俳句病です(笑)。歌のように、朝夕はもう寒いくらいだけれど、日中はまだ暑い日が多いのが、いまごろの「葉月」という月だ。春先と同じで、なんとなく情緒不安定になりやすい。まさに「故はなし」であるのだが、草城は病気がちだったので、やはり身体的不調も加わっていたのではなかろうか。暑いなら暑い、寒いなら寒いのがよい。原稿をもらいに行ったときに、いかにもだるそうに呟いた黒田喜夫の顔を思い出した。筆の遅い詩人だったが、暑からず寒からずの季節には、一日に一行も書けない日があった。電話がない家だったので、とにかく神田から清瀬まで、連日通い詰めたものだ。句に従えば「世を疎(うと)」んじていたはずだから、「世」を代表しているような顔つきの編集者なんぞには、会いたくもなかっただろう。と、今にして思う。もう、三十数年も昔の話だ。ただし、この句からそんなに暗い印象は受けない。無理やりにも「故はなし」と、自分で自分に言い聞かせているところが、どことなくユーモラスで、読者の気持ちをやわらげるからだろう。『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


September 2192002

 名月を取てくれろとなく子哉

                           小林一茶

名な『をらが春』に記された一句。泣いて駄々をこねているのは、一茶が「衣のうらの玉」とも可愛がった「さと女」だろう。その子煩悩ぶりは、たとえば次のようだった。「障子のうす紙をめりめりむしるに、よくしたよくしたとほむれば誠と思ひ、きやらきやらと笑ひて、ひたむしりにむしりぬ。心のうち一點の塵もなく、名月のきらきらしく清く見ゆれば、迹(あと)なき俳優(わざをぎ)を見るやうに、なかなか心の皺を伸しぬ」。この子の願いならば、何でも聞き届けてやりたい。が、天上の月を取ってほしいとは、いかにも難題だ。ほとほと困惑した一茶の表情が、目に浮かぶ。何と言って、なだめすかしたのだろうか。同時に掲句は、小さな子供までが欲しがるほどの名月の素晴らしさを、間接的に愛でた句と読める。自分の主情を直接詠みこむのではなく、子供の目に託した手法がユニークだ。そこで以下少々下世話話めくが、月をこのように誉める手法は、実は一茶のオリジナルな発想から来たものではない。一茶句の出現するずっと以前に、既に織本花嬌という女性俳人が「名月は乳房くはえて指さして」と詠んでいるからだ。そして、一茶がこの句を知らなかったはずはないのである。人妻だった花嬌は、一茶のいわば「永遠の恋人」ともいうべき存在で、生涯忘れ得ぬ女性であった。花嬌は若くして亡くなってしまうのだが、一茶が何度も墓参に出かけていることからしても、そのことが知れる。掲句を書きつけたときに、花嬌の面影が年老いた一茶の脳裏に浮かんだのかと思うと、とても切ない。「月」は「罪」。(清水哲男)


September 2292002

 空に柚子照りて子と待つ日曜日

                           櫛原希伊子

語は「柚子(ゆず)」で秋。快晴。抜けるような青空に、柚子の実が照り映えている。「日曜日になったらね」と、作者は子供と出かける約束をしている。遊園地だろうか。約束の日曜日も、こんなに見事な上天気でありますように……。庭で洗濯物を干しながら、学校に行っている子供のことをふっと思いやっている。たとえば、そんな情景だ。大人にとっては、ことさらに特別な約束というのではないけれど、子供にしてみれば、大きな約束である。学校にいても、ときどき思い出しては胸がふくらむ。「はやく、日曜日にならないかなあ」。作者は、というより人の子の親ならば誰でも、そうした子供の期待感の大きさをよく知っているから、「子が待つ」ではなくて「子と待つ」の心境となる。さて、その待望の日曜日がやってきた。母子は約束どおりに、上天気のもと、機嫌よく出かけられたのだろうか。私などは、何度も仕事とのひっかかりで出かけられないことがあったので、気にかかる。作者も自註に、約束が果たせないこともあって、「また今度ね」と言ったと書いている。がっかりして涙ぐんだ子供の顔が、目に浮かぶ。よく晴れていれば、がっかりの度合いも一入だろう。掲句は言外に、何かの都合で約束が反古になるかもしれぬ、いくばくかの不安を含んでいるのではあるまいか。そう読むと、ますます空に照る柚子の輝きが目に沁みてくる。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会)所収。(清水哲男)


September 2392002

 月触るる一瞬鶴となる楽器

                           石母田星人

月琴
い室内に、月の光りが射し込んできた。立て掛けてあった、あるいは吊るしてあった楽器に光りが触れたとき、一瞬「鶴」のように思えたというのである。楽器は鶴を連想させたのだから、棹の長いギターや三味線のような弦楽器だろう。月夜の空にむかって首を伸ばし、いまにも一声発しそうな気配だ。素直に受け取れば、こういうことだろうが、もしかすると作者は、中国伝来の楽器、その名も「月琴(げっきん)」の演奏を聴いて想を得たのかもしれないと思った。「東アジアのリュート属の撥弦(はつげん)楽器。中国、宋(そう)代に阮咸(げんかん)から発達し、明(みん)代に現在のような短棹(たんざお)になった。胴は満月のように真円形をし、音は琴を連想させるため、月琴といわれる。(C)小学館」。渡来した江戸期には、大いに流行した楽器だといい、浮世絵にも数多く描かれている。絵からわかるように、たしかに棹が短い。短いが、演奏に吸い寄せられているうちに、佳境に入った一瞬、鶴の首のように棹が伸びたような感じになった。すなわち、演奏者が自在に月琴をあやつる様子を、このように詠んだとも取れるのではなかろうか。月と楽器。いずれにしても、この取り合わせは、それだけで耽美的な雰囲気を醸し出すようだ。『俳句スクエア・第一集』(2002)所載。(清水哲男)


September 2492002

 不思議なるものに持病やとろろ汁

                           五味 靖

語は「とろろ汁」で秋。麦飯にかけたものが「麥とろ」。するするっと喉を越す味わいは何とも言えないが、逆に言えば、甘いとか辛いとか酸っぱいとかという、はっきりした味のない食べ物だ。一度も食べたことがない人に、口で説明するのは非常に困難な「不思議」な味である。そのとろろ汁を啜りながら、ふと作者は「持病」のことに思いがいたった。年齢を重ねれば、たとえ軽度であれ、たいていの人は一つか二つの持病を抱えこむ。いつもの兆候、いつもの発作。もはや慣れっこになっていて、ほとんど無意識のうちに対応できるので、日ごろあらためて意識することは少ない。が、作者のようにあらためて意識してみると、なるほど「不思議」といえば「不思議」な病気だ。周囲の人は免れているのに、なぜ自分にだけ取りついたのだろうか。掲句に触れたときに、長年の持病に悩む友人が、あるとき呟くように漏らした言葉を思い出した。「持病ってやつは、カラダから離れないんだよなあ」。だから持病なのだが、当たり前じゃないかとは笑えなかった。「ホントに、そうだよねえ」と答えていた。風邪や腹痛ならば、いずれは治る。カラダから出ていく。なのに、生涯出ていかない病気とは、やはり不思議と言うしかないだろう。瞑目するようにしてとろろ汁を啜っている作者の姿が、持病持ちひとりひとりの姿に重なってくる。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


September 2592002

 榎の実散る此頃うとし隣の子

                           正岡子規

語は「榎の実(えのみ)」で秋。『和漢三才図会』に「大きさ、豆のごとし。生なるは青く、熟するは褐色、味甘にして、小児これを食ふ。早晩の二種あり。……」とある。榎(えのき)は高さ二十メートルにも達する大木だから、熟して落ちてくるまでは食べられない。落ちてくると、いつも拾いに来る「隣の子」が、このごろはさっぱりご無沙汰だ。どうしたのだろうか。母と妹との三人暮らし。来客のない日には、よほど寂しかったと思われる。子供でもいいから来てくれないものかと、願っている感じがよく出ている。子供は移り気だ。昨日まで何かに夢中でも、今日新しいことに興味がわくと、昨日までの関心事はすっぱりと放り投げてしまう。そのことは子規ももちろん承知しているから、もう来ないだろうと半分以上はあきらめているのだ。だから、いっそう寂寥感が増す。ところで、実は子規庵には榎の木はなく、食べられる実のなる似たような木としては椎の木があった。事実「椎の実を拾ひにくるや隣の子」と詠んでいる。では、なぜわざわざ「榎の実」としたのだろうか。最近出た中村草田男『子規、虚子、松山』(2002・みすず書房)によれば、「此句では、其椎の木を、松山地方には沢山ある榎の木にちょっと入れかえてみたのでしょう」とある。すなわち、望郷の念も込められている句なのであった。病者の寂しさは、どんどんふくらんでいく。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


September 2692002

 猿の手の秋風つかむ峠かな

                           吉田汀史

ながら、よく描かれた墨絵を思わせる品格ある句だ。この「秋風」は、肌に沁み入るほどに冷たい。群れを離れた一匹の「猿」が、「峠(とうげ)」で懸命に掴もうとしているのは何だろうか。かっと目を見開いて身構える孤猿の「手」を、作者は凝視しないわけにはいかなかった。掴みたいものが何であれ、しかし何も掴めずに、風を、すなわち空(くう)を何度も掴んでいる姿には、孤独ゆえに立ち上がってきた狂気すら感じられる。そんな猿のいる峠は、したがって、容易に人間の立ち入れるような世界ではないと写る。異界である。ところで、作者自註によれば、実はこの猿は檻の中にいた。「剣山の見える峠のめし屋。錆びた鉄格子を狂ったように揺する一匹の老猿」。掴んでいるのは実体のある鉄格子だったわけだが、その鉄格子を風のように空しいものと捉えることで、作者は猿を檻の外の峠に出してやっている。出してやったところで、もはや老猿の孤独が癒されることは、死ぬまでないだろう。だが、出してやった。いや、出してみた。単純に、自然に返してやろうというような心根からではない。檻の中の一匹の猿の孤独が、実は峠全体に及んでいることを書きたいがためであった。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


September 2792002

 豊年や夕映に新聞を読み

                           加畑吉男

の季語「豊年」の意味は誰でも知っているが、昨今「豊年」を実感する人は、農家の人を含めても少ないのではあるまいか。品種、技術の改良工夫が進んできて、五穀の収穫も均質化され、よほどのことがないかぎり、まずまずの豊作は保証されるようになってきたからだ。その意味で、豊年はだんだん死語と化していくだろう。いや、もはや実質的には死語かもしれない。したがって、豊年の季語を詠み込んだ俳句が生き生きと感じられるのは、昔の句に限定される。掲句がいつ詠まれたのかはわからないけれど、戦後にしても、十数年とは経っていないころかと思われる。「夕映(ゆうばえ)」のなかで「新聞」を読む農夫……。忙しい収穫期に、まず新聞など読むヒマもない人が、今日は夕映のなかで新聞を読んでいる。豊作が確実となった心の余裕からか、あるいはあらかたの収穫を豊饒裡に終えた安堵からなのか。かつて農村に暮らした私などには、もうこの情景だけでジ〜ンと来るものがある。そして、この新聞は夕刊ではないだろう。いまでもそうした地方は多いが、夕刊がきちんと配達されるのは、都会か都会に近い地域に限られている。ましてや昔ならば、まず農村に夕刊が届けられることはなかった。この人は、だから朝刊を読んでいるのだ。夕映のなかにある朝刊。この取り合わせが、五五七の破調とあいまって、一読、胸に響いたまま離れないのだった。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


September 2892002

 セザンヌの林檎小さき巴里に来て

                           森尻禮子

林檎
ザンヌはたくさん林檎の絵を描いているので、作者がどの絵のことを言っているのかはわからない。ただ「巴里」で見られる最も有名な作品は、オルセー美術館が展示している「林檎とオレンジ」だ。六年の歳月をかけて完成したこの絵は、見られるとおりに、不思議な空間で構成されている。そのせいで、見方によって林檎は大きくも見え、またとても小さくも見える。じっと眺めていると、混乱してくる。美術史的な能書きは別にすると、常識的なまなざしにとっては、かなりスキャンダラスな絵に写る。たとえば作者は、まず美術館でこの絵を見た。実際の林檎は大きかったのか、それとも……。で、その後で、裏通りの果物屋か八百屋で売られている林檎を見た。とすると、そこに盛られていたのは、予想外に小さな林檎だったはずである。日本の立派な林檎を見慣れた目には、貧弱とすら思えただろう。私の乏しい見聞では、あちらの林檎は総じて小さいという印象だ。ああ、百年前のセザンヌは、こんなにも小さな林檎に立ち向かっていたのか。作者はこの感慨に、どんな名所旧跡よりも「巴里」に来ていることを感じさせられたのだった。と、こんなふうに読んでみたのですが、如何でしょうか。『星彦』(2001)所収。(清水哲男)

お断り・作者名のうちの「禮」は、正式には「ネ偏」に「豊」と表記します。


September 2992002

 朝潮がどっと負けます曼珠沙華

                           坪内稔典

の「朝潮」は、いつの頃の朝潮だろうか。大関までいった現高砂親方も、負けるときにはあっけなく「どっと」負けてはいた。肝心のときに苦し紛れに引く癖があり、引くと見事なほどに「どっと」転がされてたっけ……。でも、彼以上に「どっと負け」の脆さを見せたのは、昭和三十年代に活躍した横綱の朝潮のほうだろう。「肩幅が広く胴長の体格、太く濃い眉を具えた男性的な容貌や胸毛は大力士を思わせ、師匠の前田山は入門当初から『この男は将来は横綱に成る』と公言していた。それだけに厳しく稽古を附けられたが泣きながら耐え、強味を増した。右上手と左筈で左右から挟み附けて押し出す取り口は『鶏追い戦法』と言われて圧倒的な強さを見せたが、守勢に回ると下半身の弱さから脆く、『強い朝潮』と『弱い朝潮』が居ると言われた」(「幕内力士名鑑」)。腰痛分離症、座骨神経炎につきまとわれていたからだが、当時としてはとてつもない大男だったので、失礼ながら私は秘かに「ウドの大木」と呼んでいたのだった。この朝潮全盛時代には、テレビはまだまだ高嶺の花だったので、すべて街頭のテレビで見た記憶による。掲句のミソは、とにかく「どっと」に尽きる。群生する「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」も、どっと咲いてはどっと散っていく。高校時代、バス停への近道に墓場を通った。この季節になると、文字通りに「どつと」咲き乱れていた曼珠沙華よ。おお、哀しくも懐しい記憶が「どっと」戻ってきたぞ。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


September 3092002

 鐘鳴れば秋はなやかに傘のうち

                           石橋秀野

書に「東大寺」とある。句の生まれた状況は、夫であった山本健吉によれば、次のようである。「昭和二十一年九月、彼女は三鬼・多佳子・影夫・辺水楼等が開いた奈良句会に招かれて遊んだ。大和の産である彼女は数年ぶりに故国の土を踏むことに感動を押しかくすことが出来なかった」。この「傘」が日傘であったことも記されている。秋の日が、さんさんと照り映えている上天気のなか、久しぶりに故郷に戻ることができた。それだけでも嬉しいのに、すっかり忘れていた東大寺の鐘の音までもが出迎えてくれた。喜びが「傘のうち」にある私に溢れ、それも色彩豊かな秋の景色とともに「はなやかに」日傘を透かして溢れてくる……。「傘のうち」は、すなわち自分にだけということであり、同行者にはわからないであろう無上の喜びを、一人で噛みしめている気持ちが込められている。このときに作者は、日常の生活苦のことも、それに伴う寂寥感も、何もかも忘れてしまっているのだ。故郷の力と言うべきだろう。再度、山本健吉を引いておけば「そしてこの束の間の輝きを最後として、その後の彼女の句には、流離の翳に加うるに病苦の翳が深くさして来るのである」と、これはもう哀悼の辞そのものであるが。『桜濃く』(1959)所収。(清水哲男)




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