September 032002
虫の夜の星空に浮く地球かな
大峯あきら
季語は「虫」で秋。秋に鳴く虫一般のことだが、俳句で単に「虫」といえば、草むらで鳴く虫たちだけを指す。鳴くのは、雄のみ。さて、天には星、地には草叢にすだく虫。作者は、まことに爽やかかつ情緒纏綿たる秋の夜のひとときを楽しんでいる。星空を見上げているうちに、自分がいまこうして存在している「地球」もまた、あれらの星のように「空」に浮かんでいるのだと思った。すると、作者の視座に不思議なずれが生じてきた。地球をはるかに離れて、どこか宇宙の一点から星空全体を眺めているような……。この視座からすると、たしかに地球が遠くで青く光る姿も見えてくるのである。となれば、虫たちは地球上の草叢ではなくて、いわば宇宙という草叢全体ですだいている理屈になる。つまり、作者には庭先の真っ暗な草叢が、にわかに宇宙的な広がりをもって感じられたということだろう。一種の錯覚の面白さだが、はじめて読んだときには、ふわりと浮遊していく自分を感じて、軽い目まいを覚えた。それは、地球が空に浮いているという道理からではなく、草叢がいきなり宇宙空間全体に拡大されたことから来たようだった。『夏の峠』(1997)所収。(清水哲男)
June 182006
南瓜咲く室戸の雨は湯のごとし
大峯あきら
季語は「南瓜(かぼちゃ)の花」で夏。「室戸(むろと)」は、高知県の室戸だ。残念ながら行ったことはないけれど、戦前から二度も(1934・1961)気象史上に残る超大型台風に見舞われている土地なので、地名だけは昔からよく知っている。地形から見ても、いかにも風や雨の激しそうなところだ。その室戸に「南瓜」の花が咲き、その黄色い花々を叩くようにして、雨が降っている。なんといっても、その雨が「湯のごとし」という形容が素晴らしい。さながら湯を浴びせかけるように、降っている南国の雨。雨の跳ねる様子が、まるで立ちのぼる湯煙のように見えているのだろう。そして、こう言ってはナンだけれど、南瓜の花は決してきれいな花ではない。多く地面に蔓を這わせて栽培するので、咲きはじめるや、たちまち土埃などで汚れてしまう。そうした環境からくる汚れもあるし、花自体が大きくてふにゃふにゃしているので、きりりんしゃんと自己主張する美しさにも欠けている。一言で言うならば、最初から最後まで「べちゃあっ」とした印象は拭えない。そんな花に湯のような雨がかかるのだから、これはもう汚れが洗い落とされるどころか、無理にも地面に押しつけられて、泥水のなかへと浸されてゆく。実際に見ている作者は、外気の蒸し暑さに加えてのこの情景には、なおさらに暑苦しさを覚えさせられたのではあるまいか。南瓜の花の特性をよくとらえて、南国に特有の夏の雨の雰囲気を見事に描き出した佳句と言えよう。青柳志解樹編著『俳句の花・下巻』(1997)所収。(清水哲男)
October 192007
がちやがちやに夜な夜な赤き火星かな
大峯あきら
毎夜同じ虫が同じところで鳴く。巣があるのか、縄張りか。がちゃがちゃの微かだが特徴のある声が聞こえ、夜空には赤い大きな火星が来ている。俳句は瞬間の映像的カットに適した形式だと言われているが、この句の場合はある長さの時間を効果的に盛り込んでいる。加藤楸邨の「蜘蛛夜々に肥えゆき月にまたがりぬ」と同じくらいの時間の長さ。この句、字数が十七。十七音定型を遵守した場合での最大、最長の字数になる。句は意味内容の他に、リズムや漢字、ひらがななどの文字選択、そして字数もまた作品の成否に関わる要素になる。音が同じで字数が少なければ一句は緊縮した印象を与え、字数が混んでいれば叙述的な印象を与える。がちゃがちゃという言葉が虫の名を離れてがちゃがちゃした「感じ」を醸し出すのもこの字数の効果だ。一句の中で文字ががちゃがちゃしているのである。十七音を遵守した上で、最少の字数で作ってみようとしたことがある。九字の句は作れたが、それが限度だった。もちろん内容が一番肝心なのだが。『牡丹』(2005)所収。(今井 聖)
September 182009
満月に落葉を終る欅あり
大峯あきら
人のように一本の欅が立つ。晩秋になり葉を落してついに最後の一枚まで落ち尽す。そこに葉を脱ぎ捨てた樹の安堵感が見える。氏は虚子門。虚子のいう極楽の文学とはこういう安堵感のことだ。落葉に寂寥を感じたり、老醜や老残を見たりするのは俳句的感性にあらず。俳句が短い詩形でテーマとするに適するのはやすらぎや温かさや希望であるということ。この句がやすらぎになる原点は満月。こういう句を見るとやっぱり俳句は季語、自然描写だねと言われているような気がする。さらにやすらぎを強調しようとすれば、次には神社仏閣が顔を出す。だんだん「個」の内面から俳句が遠ざかっていき、俳句はやすらぎゲームと化する。難しいところだ。『星雲』(2009)所収。(今井 聖)
September 072012
みづうみに盆来る老の胸乳かな
大峯あきら
渋い句。みづうみと盆と老を並べたところであらかた想像できる類型的な俳諧趣味を胸乳で見事に裏切り人間臭い一句となった。老と盆は近しい関係。なぜなら老はもうすぐ彼岸にいく定めだから。その老についている乳房は子供を産んで育てた痕跡である。産んで老いて彼岸に行く。そんな巡りを静かに肯定している。この肯定感こそ虚子が言った極楽の文学だ。『鳥道』(1981)所収。(今井 聖)
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