前橋行き。漫才の「ちゃらんぽらん」じゃないが「中途半端やナア」の距離。ではでは。




2002N97句(前日までの二句を含む)

September 0792002

 恋遠しきりりと白き帯とんぼ

                           的野 雄

語は「とんぼ(蜻蛉)」で秋だが、実際の「とんぼ」ではなくて、絽などの帯に織り込まれたそれだと思う。白地に、かすかにとんぼの姿が浮き出ていて、どちらかといえば夏用の帯だろう。つまり、秋の涼しさを先取りした図柄ということに。もっとも、これは二十代の終りの頃、生活のために手伝った『和装小辞典』(池田書店)のためのニワカ勉強で得た知識からの類推なので、アテにはなりません。句の眼目は、そんな詮索にあるのではなく、「きりりと」の措辞にある。遠い恋、淡い恋。句集で作者の年代を見ると、私より七歳年長だ。そうすると、敗戦時には中学生か。となれば、戦後の和装どころではない時代に「とんぼ」の帯を見たのではなく、もう少し低年齢での思い出ということにならざるを得ない。「恋」というよりも、甘美なあこがれに近い心情の世界だ。近所の友だちのお姉さんか誰か、いずれにしても対象は身近な年上のひとだ。とんぼの帯を「きりりと」締めていた様子が忘れられなくて、いつもこの季節になると、切なくも甘酸っぱく思い返されるのである。「きりりと」とは、近寄りがたい雰囲気をあらわしていながら、だからこそ逆に近寄りたいという気持ちを誘発させられる。思春期のトバ口にあった頃の男の子の想いは、掲句のようにいつまでも残ってしまう。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


September 0692002

 道化師の鼻外しをる夜食かな

                           延広禎一

語は「夜食」で秋。秋は農村多忙の季節ゆえ、元来は農民の夜の軽食を指した。掲句は、芸人ならではの夜食だ。「鼻外しをる」とあるから、まだショーは終わっていない。次の出番までに、とりあえず腹を満たしておこうと、楽屋でこれから仕出し弁当でもつつくところなのだろう。旅から旅への芸人で、それも「道化師」となれば、傍目からの侘しさも募る。味わうというのではなく、ただ空腹を満たすための食事は、昔から芸人の宿命みたいなもので、現代の華やかなテレビタレントでも同じことだ。放送局の片隅で何かを食べている彼らを見ていると、つくづく芸人なんぞになるもんじゃないなと思う。それがむしろ楽しく思えるのは、駆け出しの頃だけだろう。昔、テレビの仕事で、プロレスの初代「タイガーマスク」を取材したことがある。宇都宮の体育館だったと思う。試合前の楽屋に行くと、稀代の人気者が、こちらに背中を向けて飯を食っているところだった。むろん、そんな場面は撮影禁止だ。カメラマンが外に出た気配を確認してから、やおら振り向いた彼の顔にはマスクがなかった。当たり前といえば当たり前だが、いきなりの素顔にはびっくりした。と同時に、誰だって飯くらいは素顔で食いたいのだなと納得もした。手にしていたのは仕出し弁当ではなく、どう見ても駅弁だったね、あれは。体力を使うプロレスラーの食事にしてはお粗末に思えたので、いまでも覚えているという次第。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 0592002

 夢殿にちょっとすんでた竃馬

                           南村健治

語は「竃馬(かまどうま)」で秋。「いとど」とも言い、芭蕉『おくのほそ道』に「海士の屋は小海老にまじるいとどかな」と出てくる。湿ったかまどの周辺や土間などでよく見かけたものだが、いまではどこに棲息しているのだろうか。コオロギに似ているが、翅がなく鳴かない。とにかく、地味で淋しそうな虫だ。句は、そんな竃馬が、なんと、かの有名な法隆寺の「夢殿」に「ちょっとすんでた」ことがあるという。何故わかったかといえば、この虫が作者に語って聞かせたからである(笑)。そんじょそこらの竃馬とは虫の格が違うんだぞと、一寸の虫にも五分のプライドか……。まさか嘘ではなかろうが、得意げに髭を振って話している姿を想像すると、それこそ「ちょっと」可笑しい。このときに、むろん作者は他ならぬ人間界を意識しているわけで、そう言えば、こうした俗物感覚で物を言う人がいることに思い当たる。当人は有名な外国の都市に「ちょっと住んでた」だとか、著名人を「ちょっと知ってる」だとかと、しきりに「ちょっと」とさりげなさを強調するのだけれど、この「ちょっと」が曲者だ。謙虚に見せて、実は押し付けになるケースが多い。そうした押し付けに気がつかない人の自慢話を聞いていると、そのうちに「ちょっと」可哀想な気持ちにもなってくる。『大頭』(2002)所収。(清水哲男)




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