September 102002
秋蝶の一頭砂場に降りたちぬ
麻里伊
秋の蝶は姿も弱々しく、飛び方にも力がない。「ますぐには飛びゆきがたし秋の蝶」(阿波野青畝)。そんな蝶が「砂場」に降りたった。目を引くのは「一頭」という数詞だ。慣習的に、蝶は一頭二頭と数えるが、この場合には、なんと読むのか(呉音ではズ、唐音ではチョウ・チュウ[広辞苑第五版])。理詰めに俳句としての音数からいくと「いちず」だろうが、普通に牛馬などを数えるときの「いっとう」も捨てがたい。というのも、枝葉や花にとまった蝶とは違い、砂場に降りた蝶の姿はひどく生々しいからだ。蝶にしてみれば、砂漠にでも降りてしまった気分だろう。もはや軽やかに飛ぶ力が失せ、かろうじて墜落に抗して、ともかくも砂場に着地した。人間ならば激しく肩で息をする状態だ。このときに目立つのは、蝶の羽ではなくて、消えゆく命そのものである。消えゆく命は蝶の「頭」に凝縮されて見えるのであり、ここに「一匹」などではなく「いちず」の必然性があるわけだが、しかし全体の生々しさには「いっとう」と呼んで差し支えないほどの存在感がある。作者が「いちず」とも「いっとう」ともルビを振らなかったのは、その両方の意を込めたかったからではなかろうか。やがて死ぬけしきを詠むというときに、この「一頭」は動かせない。『水は水へ』(2002)所収。(清水哲男)
June 062003
ぼうたんの夢の途中に雨降りぬ
麻里伊
季語は「ぼうたん(牡丹)」で夏。やわらかい句だ。このやわらかさには、ホッとさせられる。作者が牡丹の夢を見ているのか、あるいは牡丹そのものが夢見ているのか。助詞「の」の解釈次第で、二通りに読める。どちらだろう……。などと考えるようでは、俳句は読めない。この二通りの読みが曖昧に重なっているからこそ、句のやわらかさが醸し出されてくる。いずれかに降る雨だとすれば、甘すぎる砂糖菓子のようなヤワな句になってしまう。すなわち、「の」の曖昧な使い方が掲句の生命なのである。先日の「船団」と「余白句会」のバトル句会に思ったことの一つは、詩人は句作に際して、言葉の機能を曖昧に使わないということだった。イメージを曖昧にすることはできても、言葉使いを意識して曖昧にはできないのだ。だから、どうしても「何が何して何とやら」みたいな句になってしまう。対するに、掲句は「何やらが何して何である」という構造を持つ。ポエジー的には、どちらが良いと言う問題ではない。三つ子の魂百まで。両者の育ちの違いとでも言うしかないけれど、掲句のように言語機能の曖昧な使い方を獲得しないかぎり、自由詩の書き手が俳句で自在に遊ぶところまでは届かないのではあるまいか。むろん、他人事じゃない。私にとっても、現在ただいま切実な問題なのである。『水は水へ』(2002)所収。(清水哲男)
January 302006
ひと口を残すおかはり春隣
麻里伊
季語は「春隣(はるとなり)」で冬、「春近し」に分類。これも季語の「春待つ」に比べ、客観的な表現である。「おかはり」のときに「ひと口を残す」作法は、食事に招いてくれた主人への気配りに発しているそうだ。招いた側は、客の茶碗が空っぽになる前におかわりをうながすのが礼儀だから、その気遣いを軽減するために客のほうが気をきかし、「ひと口」残した茶碗でおかわりを頼むというわけである。残すのは「縁が切れないように」願う気持ちからだという説もある。いずれにしても掲句は、招いた主人の側からの発想だろう。この作法を心得た客の気配りの暖かさに、実際にも春はそこまで来ているのだが、心理的にもごく自然に春近しと思えたのである。食事の作法をモチーフにした句は、珍しいといえば珍しい。私がこの「おかはり」の仕方を知ったのは、たぶん大学生になってからのことだったと思う。だとすれば京都で覚えたことになるのだが、いつどこで誰に教えられたのかは思い出せない。我が家には、そうした作法というか風習はなかった。おかわりの前には、逆に一粒も残さず食べるのが普通だった。だから、この作法を習って実践しはじめたころには、なんとなく抵抗があった。どうしても食べ散らかしたままの汚い茶碗を差し出す気分がして、恥ずかしいような心持ちが先に立ったからだった。このとき同時に、ご飯のおかわりは三杯まで、汁物のおかわりは厳禁とも習った。が、こちらのほうのマナーは一度も気にすることなく今日まで過ごしてきた。若い頃でも、ご飯のおかわりは精々が一杯。性来の少食のゆえである。「俳句αあるふぁ」(2006年2-3月号)所載。(清水哲男)
October 092008
弁当は食べてしまつた秋の空
麻里伊
運動会、ピクニック、山登り。行楽に気持ちのよい季節になった。芝生の上に色とりどりのビニールシートを広げて、それぞれの家族が食事を楽しんでいる。コンビ二やデパートの弁当を買ってきて外で食べるだけでも気分が変わっていいものだけど、弁当の王者はなんと言っても三段重ねの重箱だろう。各地を転勤して回ったなかで一番弁当が豪華だったのは鹿児島の運動会だった。ご近所が誘い合って座る大判のビニールシートの真ん中にいくつも重箱が並び、魔法瓶に詰めた焼酎を酌み交わしていた。このご時世アルコールは禁止になっているだろうが、あの賑わいはよかった。手の込んだ弁当をみんなで食べるのも楽しみだが、梅干をどかんとおいた日の丸弁当でも充分。一粒も残さず食べた空っぽの弁当の蓋を閉じて見上げればどこまでも広がる秋の空。「食べてしまつた」と単純な言葉であるが、楽しい行楽の半ば以上が終わってしまったさみしさと秋空の空白感が響き合っている。運動会、遠足。あんなにもお弁当が楽しみだった子供の、家族の心持ちを懐かしく思い出させる句である。『水は水へ』(2002)所収。(三宅やよい)
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