September 122002
新米のひかり纏いて炊きあがる青木規子新 September 112002 敗荷のみな言ひ止しといふかたち峯尾文世季語は「敗荷(やれはす・やれはちす・はいか・はいが)」で秋。台風などで、吹き破られた蓮の葉のこと。何か言いかけて途中で止めてしまうのが「言ひ止し(いいさし)」だが、破れた蓮の葉のかたちに、作者はそれらの葉の無念を見ている。そこが新鮮だ。句の葉の無念は、しかし、必ずしも第一に台風などのせいではないところを味わうべきだと思った。元来「言ひ止し」とは、自分の意志で物言いを止めてしまうことだから、まさか自分が台風などのせいで急に物が言えなくなるとは思ってもいなかったのに、思いがけない災難で、言いたいこともついに言えないままになってしまったのである。平たく言えば、我が身の物言わぬままの破滅は、楽天的に明日を信じたせいとも言えるのだ。そのことの無念だ。そして、そこここの蓮の葉が、みんなそうなってしまっているという無惨。だったら、元気なうちに言うべきことをちゃんと言っておけばよかったのに……。なんて発想が出るのは常に第三者からなのであり、第三者に同情されたところで、無念の「かたち」が修復されるわけじゃない。私たちは、いつだって「言ひ止し」の連続で生きているような存在だろう。そして、誰だっていつかは敗荷の身を生きて、死んでいくことになるのだろう。人の世とは、なんと理不尽なものか。と、作者は目の前の敗荷を見つめながら、いま、そう思いはじめたところである。『微香性』(2002)所収。(清水哲男) September 102002 秋蝶の一頭砂場に降りたちぬ麻里伊秋の蝶は姿も弱々しく、飛び方にも力がない。「ますぐには飛びゆきがたし秋の蝶」(阿波野青畝)。そんな蝶が「砂場」に降りたった。目を引くのは「一頭」という数詞だ。慣習的に、蝶は一頭二頭と数えるが、この場合には、なんと読むのか(呉音ではズ、唐音ではチョウ・チュウ[広辞苑第五版])。理詰めに俳句としての音数からいくと「いちず」だろうが、普通に牛馬などを数えるときの「いっとう」も捨てがたい。というのも、枝葉や花にとまった蝶とは違い、砂場に降りた蝶の姿はひどく生々しいからだ。蝶にしてみれば、砂漠にでも降りてしまった気分だろう。もはや軽やかに飛ぶ力が失せ、かろうじて墜落に抗して、ともかくも砂場に着地した。人間ならば激しく肩で息をする状態だ。このときに目立つのは、蝶の羽ではなくて、消えゆく命そのものである。消えゆく命は蝶の「頭」に凝縮されて見えるのであり、ここに「一匹」などではなく「いちず」の必然性があるわけだが、しかし全体の生々しさには「いっとう」と呼んで差し支えないほどの存在感がある。作者が「いちず」とも「いっとう」ともルビを振らなかったのは、その両方の意を込めたかったからではなかろうか。やがて死ぬけしきを詠むというときに、この「一頭」は動かせない。『水は水へ』(2002)所収。(清水哲男)
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