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September 1592002

 反逆す敬老の日を出歩きて

                           大川俊江

駄な「反逆」かもしれない。でも、私は老人扱いされるのはイヤだ。ましてや、おしきせの祝う会などには出たくない。普段通りに、いやそれ以上に、外出してあちこち歩き回ってやるのだ。「敬老」だなんて、冗談じゃないよ。と、意地の一句である。このような句が、私にはようやく実感としてわかる年齢になってきた。まったくもつて、腹立たしい。以下、最近の「日本経済新聞」(2002年9月7日付)に書いた拙文を、多少削って再録しておきます。……それにしても「敬老の日」とは、まことに奇怪にして押しつけがましいネーミングだ。というのも、「敬老」の主体は老人以外の人々のことだから、この日の主体は、実は老人ではないのである。つまり、国が若い人々に老人を敬えと教え、押しつける日ということだ。以前は「としよりの日」といった。それが「老人の日」に変わり、昭和四十一年から「敬老の日」に変更された。かつては、ちゃんと老人主体の祝日だったわけだ。これならば、老人が妙な違和感を覚えないでもすむだろう。できることなら国民投票でもやって、老人主体の日に戻してもらいたい。だいたいが、国家の音頭で「尊敬」などと言いはじめて、ロクなことがあったためしはないのである。それが証拠に、現今の老人に対する国の政策は、とても敬老精神から発しているとは思えない。年金問題、しかり。医療費問題、しかりではないか。事は、大きな問題だけに限らない。景気のよい時には、この日に地方自治体がお祝い金を出していたが、いまでは式典や慰安会だけになってしまった。そのうちに、経費節減でこれらもなくなるかもしれない。金の切れ目が縁の切れ目というわけか。敬老精神を持つべきは、いまや第一に為政者の側なのである。……。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


September 2192009

 反逆す敬老の日を出歩きて

                           大川俊江

の句は既に一度取り上げているが、再度付け加えておきたい。作者は「敬老の日」の偽善臭に怒っている。口では「敬老」と言いつつも、本音は老人を疎んじる社会のありようは、年寄りになってみれば誰にもわかることだ。おじいちゃんおばあちゃんと、人としてまともに向き合うのは、いつも幼児だけという現実は哀しい。つい先日も新聞を読んでいたら、こんな記述に出会った。年寄りには「枯れた味」こそが似合うし好ましい。でも、最近は枯れ損なった老人が増えてきた。原因は、このところのギスギスした社会のせいだ‥、と言うのである。一見もっともらしいけれど、「ふざけるな」と私は思った。この記事を書いた記者は、自分が偽善の片棒を担いでいることに気がついていない。あるいは気がついていても、知らん顔をしているのだ。彼が書いているのは「年寄りは年寄りらしく大人しくすっこんでろ」という本音の偽善的表現に他ならないからである。現今の社会の現実がどうであれ、年寄りにこうした杓子定規な価値観を押し付けてきた風潮は、昔からずっと変わっては来なかった。この考えは、明白に姥捨て思想につながっていく。枯れろとか好々爺になれとかなどは、余計なお世話なのである。だから、家族の反対を振り切って「出歩く」気持ちに駆られるのは、理の当然である。むしろ、こうしてささやかに出歩くこと程度が、老人に「反逆」と意識される社会の偽善の厚みこそが問題だろう。今年も「敬老の日」を季題に多くの句が詠まれるのだろうが、ユメユメ「私、枯れてますよ」みたいな句を、わざわざこちらから世間に提供してはなりませぬぞ。自分で自分のクビを締めることになるのですぞ。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)




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