日朝首脳会談に無関心だった若い人が意外に多いことに気づかされた。これも現実だ。




2002ソスN9ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1992002

 カジノ裏とびきりの星月夜かな

                           細谷喨々

語は「星月夜」で秋。古書に「闇に星の多く明るきをいふなり。月のことにはあらず」とあって、まるで月夜のように星々が輝いている夜のことだ。美しい命名である。「カジノ」とあるからには外国吟と知れるが、一読ラスベガスかなと思ったら、ウィーンでの作句だった。ま、どこの国のカジノでも構わないけれど、面白いと思ったのは、きらびやかなカジノのある繁華な通りを離れて、薄暗い「裏」手の道にまわりこんだりすると、ひとりでに夜空を仰いでしまうような性癖が、総じて我々日本人にはあると思い当たるところだった。すなわち、陰陽の陰を好むのである……。とりわけて詩歌の人にはそういう趣味嗜好性癖があり、したがって、カジノの華麗さを正面から捉えたような作品には、なかなかお目にかかれない。すなわち、いつだって「裏」から発するのではないのかしらん、我々の大半の美意識の表現は……。だから、ウィーンのカジノの裏手を知らない私にも、この「とびきりの星月夜」の美しさはよくわかる。目に見えるような気がするのだ。句の言うとおりに、きっと素晴らしい星空だったに違いない。むろん句としてはこれでよいのだし、そして作者と直接的には無関係なれど、我々の詩歌の裏手からの美意識について、ちょっと考えさせられるきっかけを得た一句となった。私も、陰や影から発する美が好きだ。でも、何故なのだろうか、と。大串章著『自由に楽しむ俳句』(1999・日東書院)の例句より引用。(清水哲男)


September 1892002

 秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな

                           中村汀女

 籾摺り
は1935年(昭和十年)、東京大森での作。昔の台所は田舎ではもちろん、瓦斯(ガス)が来ているような都会のモダンな家でも、総じて北側など暗い場所にあった。ましてや、外は秋の雨だから、陰気な雰囲気である。「秋雨の瓦斯」とは、コックをひねると出てくる瓦斯の、普段よりもいっそう暗く湿ったような感じを言っているのだろう。タイミングを計って燐寸(マッチ)を擦ると、炎が瓦斯に燃え移るというよりも、句のように「瓦斯が飛びつ」いてくるというのが実感だ。着火したら、手早く燐寸を遠ざけねばならない。慣れているはずの主婦といえどもが、緊張する一瞬である。当時は恵まれた環境にあった主婦のビビッドな感覚を伝えた掲句も、もはや郷愁を呼ぶ台所俳句の一つになってしまった。自動点火のガス器具しか知らない世代には、よくわからないかもしれない。瓦斯といえば、最近読んだ宇多喜代子『わたしの歳事ノート』(富士見書房・2002)に、明治期(三十七年)の句が引用されていた。「瓦斯竃料理書もある厨哉」。新聞の懸賞に入選した俳句だそうだが、手放しの自慢ぶりが、いまとなっては可笑しくも哀しい。時代は変わった。台所も……。画像はTOKYO GASのHPより。句は『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)などに所載。(清水哲男)


September 1792002

 点睛の瞳を穿つ栗の虫

                           照井 翠

事に充実した「栗」を、人間の「瞳」に見立てた句。なるほど、熟れてきて毬(いが)からのぞいている様子は、確かにつぶらな瞳に似ている。それも「点睛」というほどなのだから、ほれぼれするような美しい栗だ。が、そのつややかな瞳を、情け容赦もなしに「虫」が「穿つ(うがつ)」てしまっていた。栗にしてみれば、決して画竜点睛を欠いたのではなく、点睛は完璧に成ったのにもかかわらず、思わぬことから全身がむしばまれてしまったのだ。この無念さは、九仞の功を一簣に虧くどころではないだろう。他方、虫は虫でおのれの本能に従ったまでのこと。おのれの日常生活を、自然にまっとうしただけのことなのである。作者は栗に身贔屓しながらも、一方的に虫を責められない事情をあわせて書いている。無惨だとか理不尽だとかとは言わずに、すっと「栗の虫」と止めたところに、それを感じる。あまり勝手な拡大解釈は慎むべきかもしれないが、私に掲句は、人間界のありようの比喩とも受け取れた。お互いにおのれの本分を忠実にまっとうすることで、どちらかがもろくも壊れてしまう……。たとえば、現今のリストラ事情には、資本という名の「栗の虫」が出てくる。『水恋宮』(2001)所収。(清水哲男)




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