燈火親しむの候。早朝と夕刻にMacの「灯を入れる」。この粋な表現も廃れてきたなあ。




2002ソスN9ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2792002

 豊年や夕映に新聞を読み

                           加畑吉男

の季語「豊年」の意味は誰でも知っているが、昨今「豊年」を実感する人は、農家の人を含めても少ないのではあるまいか。品種、技術の改良工夫が進んできて、五穀の収穫も均質化され、よほどのことがないかぎり、まずまずの豊作は保証されるようになってきたからだ。その意味で、豊年はだんだん死語と化していくだろう。いや、もはや実質的には死語かもしれない。したがって、豊年の季語を詠み込んだ俳句が生き生きと感じられるのは、昔の句に限定される。掲句がいつ詠まれたのかはわからないけれど、戦後にしても、十数年とは経っていないころかと思われる。「夕映(ゆうばえ)」のなかで「新聞」を読む農夫……。忙しい収穫期に、まず新聞など読むヒマもない人が、今日は夕映のなかで新聞を読んでいる。豊作が確実となった心の余裕からか、あるいはあらかたの収穫を豊饒裡に終えた安堵からなのか。かつて農村に暮らした私などには、もうこの情景だけでジ〜ンと来るものがある。そして、この新聞は夕刊ではないだろう。いまでもそうした地方は多いが、夕刊がきちんと配達されるのは、都会か都会に近い地域に限られている。ましてや昔ならば、まず農村に夕刊が届けられることはなかった。この人は、だから朝刊を読んでいるのだ。夕映のなかにある朝刊。この取り合わせが、五五七の破調とあいまって、一読、胸に響いたまま離れないのだった。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


September 2692002

 猿の手の秋風つかむ峠かな

                           吉田汀史

ながら、よく描かれた墨絵を思わせる品格ある句だ。この「秋風」は、肌に沁み入るほどに冷たい。群れを離れた一匹の「猿」が、「峠(とうげ)」で懸命に掴もうとしているのは何だろうか。かっと目を見開いて身構える孤猿の「手」を、作者は凝視しないわけにはいかなかった。掴みたいものが何であれ、しかし何も掴めずに、風を、すなわち空(くう)を何度も掴んでいる姿には、孤独ゆえに立ち上がってきた狂気すら感じられる。そんな猿のいる峠は、したがって、容易に人間の立ち入れるような世界ではないと写る。異界である。ところで、作者自註によれば、実はこの猿は檻の中にいた。「剣山の見える峠のめし屋。錆びた鉄格子を狂ったように揺する一匹の老猿」。掴んでいるのは実体のある鉄格子だったわけだが、その鉄格子を風のように空しいものと捉えることで、作者は猿を檻の外の峠に出してやっている。出してやったところで、もはや老猿の孤独が癒されることは、死ぬまでないだろう。だが、出してやった。いや、出してみた。単純に、自然に返してやろうというような心根からではない。檻の中の一匹の猿の孤独が、実は峠全体に及んでいることを書きたいがためであった。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


September 2592002

 榎の実散る此頃うとし隣の子

                           正岡子規

語は「榎の実(えのみ)」で秋。『和漢三才図会』に「大きさ、豆のごとし。生なるは青く、熟するは褐色、味甘にして、小児これを食ふ。早晩の二種あり。……」とある。榎(えのき)は高さ二十メートルにも達する大木だから、熟して落ちてくるまでは食べられない。落ちてくると、いつも拾いに来る「隣の子」が、このごろはさっぱりご無沙汰だ。どうしたのだろうか。母と妹との三人暮らし。来客のない日には、よほど寂しかったと思われる。子供でもいいから来てくれないものかと、願っている感じがよく出ている。子供は移り気だ。昨日まで何かに夢中でも、今日新しいことに興味がわくと、昨日までの関心事はすっぱりと放り投げてしまう。そのことは子規ももちろん承知しているから、もう来ないだろうと半分以上はあきらめているのだ。だから、いっそう寂寥感が増す。ところで、実は子規庵には榎の木はなく、食べられる実のなる似たような木としては椎の木があった。事実「椎の実を拾ひにくるや隣の子」と詠んでいる。では、なぜわざわざ「榎の実」としたのだろうか。最近出た中村草田男『子規、虚子、松山』(2002・みすず書房)によれば、「此句では、其椎の木を、松山地方には沢山ある榎の木にちょっと入れかえてみたのでしょう」とある。すなわち、望郷の念も込められている句なのであった。病者の寂しさは、どんどんふくらんでいく。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)




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